※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
【京都・名古屋へ進出】
1938(昭和13)年5月4日から、吉本ショウは東京を離れ、名古屋劇場で公演を打っている。
タイトルは「スヰング・メロデー」。
ただ、さほど注目度は高くなかったのか、名古屋新聞を見ても特に取り上げられていない。
その翌月は京都花月劇場で公演。
第一回プログラムは名古屋と同じ「スヰング・メロデー」を演っている。
この時には、名古屋とは打って変わって注目度が高く、京都日日新聞にたびたび広告や記事が掲載されている。
しかもなんと、公演前日に掲載された予告記事の見出しは「あきれたボーイズ」となっている。
メンバーの誤りこそあるものの、その芸の特異さと東京での評判を言葉を尽くして紹介してくれている。
まだ全国区のラジオで活躍したわけでもなく、映画やレコードで売り出してもいないこの時期にあって、驚くべき注目度だ。
【京都での評判】
この京都初公演は6月1日から7月10日まで、ひと月と10日の長期公演で、プログラム替りのたびに京都日日新聞に評が出ている。
「大向うの心を無闇に浮き立たせるのが『吉本ショウ』の信条だとしらた実に結構なショウである」
「結局は梅雨時の鬱陶しさを忘れる『面白さ』だけが取柄である」
などと、「質より量」の満腹興行スタイルを京都流に皮肉っている面もあるが、一方ではその評判を好意的に記してくれてもいる。
あきれたぼういずについては
「何んとなし智的なものを仄めかせる」
「ジャズ(?)音楽のオペレッタ化に創意を見るが『熱』と編み曲の流動美に乏しい、だが、その小器用さ、チームワークの美しさとは依然この舞台の名物的存在であろう」
と評されている。
また、とくにあきれたぼういずのみを取り上げた記事もある。
十八番の「ダイナ」を始めとするネタを披露し、期待を裏切らない好評ぶりで、京都の観客達の心も掴んだようだ。
【京都の客・名古屋の客】
浅草を離れての公演でもかなりの好評を博したあきれたぼういずだが、演じる側としては、土地による客層の違いで苦労もあったようだ。
当時の座談会記事のなかでも、その点が話題になっている。
今でも東京と関西では笑いの好みは違うものだが、テレビやネットのない当時は今以上にギャップがあっただろう。
客質の違う京都・名古屋で公演し苦労した成果か、京都から浅草へ帰ってきた直後、7月21日初演の「緑風に乗って」について『キネマ旬報』に出た評ではその舞台の成長ぶりを評価されている。
とにかくスピードの速さを重視し、速射砲のように笑いを繰り出していたであろう初期のあきれたぼういずの様子を想像すると、その若手らしいギラギラとした意気込みが伝わってくるようで微笑ましいものがある。
しかし、テンポの変化やスピードの強弱のつけ方に巧みさを得て、その芸はさらに磨きがかかったものになったようだ。
都新聞の「エンコに拾う人気者」(「(25)芸風について」参照)で取り上げられたのもこの頃である。
そして同年9月には、吉本ショウは再び名古屋劇場に出演。
7日から28日まで、ひと月弱の公演を打っている。
この公演は名古屋ネットのラジオで舞台中継も放送され、ラジオ欄にはあきれたぼういずの写真入りでそのプログラムが詳しく紹介されている。
【参考文献】
「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号/国際情報社
「呆れたボーイズ・春に酔えば」/『モダン日本』1939年5月号/モダン日本社
蘆原英了「吉本ショウと『ボッカチョ』」/『キネマ旬報』1938年8月号/キネマ旬報社
名古屋新聞/名古屋新聞社
京都日日新聞/京都日日新聞社
都新聞/都新聞社
(次回8/20更新)丸の内へ進出…?