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(28)名古屋・京都へ進出/あきれたぼういず活動記
(前回のあらすじ)
あきれたぼういずは結成してまもなく話題となり、新聞や雑誌でも「吉本ショウのNo.1」として期待がかけられていた。
※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!
芝 然しあきれたぼーいずが、こんなになるとは思わなかった
川田 去年の十月頃までは、自信がもてなかったし、やっぱり楽屋の延長でしかなかった。ところが十月以後、ヨシモトとしても我々の仕事を本格的に認めてくれるし、我々のために、ショウの時間を相当とってくれる様になったので、我々も演しものを色々自分達の手で工夫しなければならなくなった。
【京都・名古屋へ進出】
1938(昭和13)年5月4日から、吉本ショウは東京を離れ、名古屋劇場で公演を打っている。
タイトルは「スヰング・メロデー」。
ただ、さほど注目度は高くなかったのか、名古屋新聞を見ても特に取り上げられていない。
その翌月は京都花月劇場で公演。
第一回プログラムは名古屋と同じ「スヰング・メロデー」を演っている。
この時には、名古屋とは打って変わって注目度が高く、京都日日新聞にたびたび広告や記事が掲載されている。
しかもなんと、公演前日に掲載された予告記事の見出しは「あきれたボーイズ」となっている。
あきれたボーイズ
陽之助漫党京都へ
東京浅草名物として盛名を馳せている東京吉本ショウのオールメンバーの大挙来演、六月一日初日で花月劇場に絢爛豪華舞台が繰り展げられることになった――
東都軽演劇界にあってその着想の素晴らしさ、振付の珍妙、洒落過ぎた趣向、頓珍漢な演技で断然群を抜いている町田金嶺、川田義雄、坊屋三郎、益田喜頓のメンバーの「あきれたボーイズ」が醸し出すスリリングなユーモアの快速調は既に演劇批評家の認める処である
メンバーの誤りこそあるものの、その芸の特異さと東京での評判を言葉を尽くして紹介してくれている。
まだ全国区のラジオで活躍したわけでもなく、映画やレコードで売り出してもいないこの時期にあって、驚くべき注目度だ。
【京都での評判】
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この京都初公演は6月1日から7月10日まで、ひと月と10日の長期公演で、プログラム替りのたびに京都日日新聞に評が出ている。
「大向うの心を無闇に浮き立たせるのが『吉本ショウ』の信条だとしらた実に結構なショウである」
「結局は梅雨時の鬱陶しさを忘れる『面白さ』だけが取柄である」
などと、「質より量」の満腹興行スタイルを京都流に皮肉っている面もあるが、一方ではその評判を好意的に記してくれてもいる。
あきれたぼういずについては
「何んとなし智的なものを仄めかせる」
「ジャズ(?)音楽のオペレッタ化に創意を見るが『熱』と編み曲の流動美に乏しい、だが、その小器用さ、チームワークの美しさとは依然この舞台の名物的存在であろう」
と評されている。
また、とくにあきれたぼういずのみを取り上げた記事もある。
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花月「あきれたぼういず」好評
花月劇場に出演の東京吉本ショウ第二回公演は「ペラ・フォリーズ」十一景でこの種のショウとしてはみるべきものがあり
「沈黙の凱旋に寄す」などは華やかなうちにも思わず襟を正さしめる、町田と川田のコンビのコミックも愉快だがラストのあきれたボーイズの活きた演技に川田、芝、坊屋、益田らのそれぞれのパーソナリティを巧みに表現して洒落た節調におどけた物真似に「ダイナ」を八木節で唸ったり「アイルランドの娘」を浪花節で怒鳴る物凄い心臓の連中で珍演しているが好評笑讃で新京極の話題の中心になり京都名物として新らしく選定されるだろう
十八番の「ダイナ」を始めとするネタを披露し、期待を裏切らない好評ぶりで、京都の観客達の心も掴んだようだ。
【京都の客・名古屋の客】
浅草を離れての公演でもかなりの好評を博したあきれたぼういずだが、演じる側としては、土地による客層の違いで苦労もあったようだ。
当時の座談会記事のなかでも、その点が話題になっている。
川田 名古屋の客は、悪どい位にギャッグを強めないと笑いませんね。京都で初めて演った時は驚いた
芝 ギターで新内流しをやっても、八木節をやっても、ちっとも嬉しがらない
川田 僕は例によってギターで浪花節をやったが、面白がらない
益田 腐っちゃいましてねえ、もうヤメようかと言ったんですが、折角来たんだからとガン張ってみた。三日目ぐらいから手を叩く客がいる。四日目ぐらいから客種がだんだん変わって来た。若い学生が殖えて来た。五日目には、ワーッと湧くようになり…
川田 千秋楽の日なんか、客席から別れを惜しむ声が頻りに飛出して、嬉しかった。
芝 はじめての京都の人には食いつき憎かったんだね、京都では江戸前の軽い洒落は通じない。
川田 名古屋の芸者には負けたな、俺達四人の顔をみて「アッ、あんたたち、『こまったボーイズ』でしょう。」ときやがった。
芝 しかし、東京よりも情深くもてなしてくれたのは嬉しかったなァ。
今でも東京と関西では笑いの好みは違うものだが、テレビやネットのない当時は今以上にギャップがあっただろう。
客質の違う京都・名古屋で公演し苦労した成果か、京都から浅草へ帰ってきた直後、7月21日初演の「緑風に乗って」について『キネマ旬報』に出た評ではその舞台の成長ぶりを評価されている。
ミス花月と共に期待出来るのは、あきれたぼおいずである。この四人の一組の芸人は既に相当の評判があるが、私は今までのところでは余り買えなかった。恐らく運が悪かったのであろう、いいものを見たことがなかった。ところが今度は中々いいのである。
今まで気に入らなかったのは、スピィディであるためと間の抜けぬために、無闇に物をテキパキ運ぶのである。矢鱈に早く、呼吸もつく間もあらせず、次の芸にかかる。見ていてイライラしてきて、仕舞いには腹立たしくなる程であった。これはスピィディと云うことを誤解していたのである。早いと云うことは夫自身としてはなく、相対的なもので、何かに較べて早いので、皆んな早けれ早いことにならない。アクセントも同じことである。強があるから弱があるのである。
そう云うことを、今度は大分よく心得た様に思われた。見ていてイライラすることもなく、落着いて気持よく見られた。そして中々面白く思った。
坊屋三郎が芯になって、ポパイの真似をしたりするのが、中々よかった。益田喜頓が歌を歌ったこともよかった。皆んなが皆んな、ピリッとした芸を見せることが必要だ。一人だけ芸が落ちるともう面白くない。感じとして坊屋三郎が一番モダンな香いがある。彼が芯になって動くことがいいと思った。
とにかくスピードの速さを重視し、速射砲のように笑いを繰り出していたであろう初期のあきれたぼういずの様子を想像すると、その若手らしいギラギラとした意気込みが伝わってくるようで微笑ましいものがある。
しかし、テンポの変化やスピードの強弱のつけ方に巧みさを得て、その芸はさらに磨きがかかったものになったようだ。
都新聞の「エンコに拾う人気者」(「(25)芸風について」参照)で取り上げられたのもこの頃である。
そして同年9月には、吉本ショウは再び名古屋劇場に出演。
7日から28日まで、ひと月弱の公演を打っている。
この公演は名古屋ネットのラジオで舞台中継も放送され、ラジオ欄にはあきれたぼういずの写真入りでそのプログラムが詳しく紹介されている。
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【参考文献】
「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号/国際情報社
「呆れたボーイズ・春に酔えば」/『モダン日本』1939年5月号/モダン日本社
蘆原英了「吉本ショウと『ボッカチョ』」/『キネマ旬報』1938年8月号/キネマ旬報社
名古屋新聞/名古屋新聞社
京都日日新聞/京都日日新聞社
都新聞/都新聞社
(次回8/20更新)丸の内へ進出…?
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