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(23)あきれたぼういず誕生①/あきれたぼういず活動記

(前回までのあらすじ)
浅草花月劇場の目玉となっている「吉本ショウ」。
そこで中心となって活躍している川田義雄、芝利英、坊屋三郎だったが…。

※あきれたぼういずの基礎情報は(1)を!

【吉本ショウのマンネリ化】

雑誌『映画情報』の1939(昭和14)年新年号に、「あきれたぼーいず座談会」が掲載されている。
あきれたぼういずの絶頂期ともいえる時期のもので、参加メンバーはあきれたぼういず四人のほか、吉本ショウのダンサー櫻文子・賀川龍子・棚木みさを、当時ショウの文芸部にいた旗一兵、雑誌記者側で可東みの助・田添一。

あきれたぼういずの結成前から現状、将来の展望まで語り合っており、非常に興味深く貴重な記事である。
現在、国立国会図書館のデジタルコレクションでも閲覧できるようになっている。

さて、この中で、あきれたぼういずを結成する前の日々についてこう述べている。

川田  ヨシモトへ入ってからだって、五六年というもの、全然下積生活だった。つまらないスケッチとか、漫才の真似事とか、アトラクションの幕のつなぎに、ちょいと現れて、お客さんのアクビをおさえる程度のはかない生活が、えんえんと続いた。
芝     つくづく厭になっちゃったもんです

「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号

皆、吉本ショウの舞台が徐々にマンネリ化してきていることに不満をためていたのだった。

【あきれたぼういず結成】

 いまでも、ありありと覚えているけれど、その朝早く、浅草公園のひょうたん池のほとりにある茶店のおまさの縁台に、舞台稽古を終えた三人が腰かけて、池の中の大きな石に銭亀が群がっているのを眺めながら、「あーあ」とため息をついていた。紙屑拾いのおじさんが、空缶かなんかを屑カゴにぶち込みながら、どこかに消えていく。「あーあ、今週もまた同じことやるのか」。

坊屋三郎「ちょいと出ましたあきれたぼういず」/『広告批評』1992年10月号

やがて「オレたち、楽器ができる連中だけで集まって、一景もらってなにかやろうじゃないか」という話になり、劇場の責任者にかけ合った。
そしてショウの中の一景をもらい、自分達で考えた演し物をやらせてもらえることに。
そこでギターを弾いて、当時の流行歌(美ち奴の「あゝそれなのに」だったとの話もある)にオチをつけたものをやったところ、これが大いにウケた。

「こりゃあすごい」と、吉本もゲンキンなもんで「どうだろう来週もあんなものをやってくれないか」……“あんなもの”ときたもんだ。
 もっとも、はじめてのココロミだから、題のつけようがないやネ。“あんなもん”というしかない。つまり、それほど、いままでにないユニークなものだったんだ。

坊屋三郎『これはマジメな喜劇でス』

これが、「あきれたぼういず」のはじまりだ。

「あきれたぼういず」という名前も、元はショウの一景のタイトルとしてつけられたものらしい。
吉本ショウでは他にも、芝利英と棚木みさをで「ハリキリコンビ」、岡村龍雄と櫻文子で「ラッキーコンビ」、このラッキーコンビに歌手のやゝま良一を加えて「モダントリオ」など、さまざまな組み合わせでの一景ものをよく出している。
川田と芝と坊屋の三人で「極楽トリオ」と称されていたこともある。
あきれたぼういずもその一環という扱いだったと思われる。

【結成日はいつか?】

初期にはメンバーも固まっておらず、六人組で紹介されていたこともある。
そのため、はっきりとした「結成日」といえるものはなく、徐々に出来上がっていったといえる。
先述の「あきれたぼーいず座談会」でも、結成日についての質問に

川田  初演はたしか去年の四月だったかな、いや、本格的に四人が組んだのは九月か
益田  いや、八月だろう
坊屋  四月に有楽座で演ったじゃないか。
芝     五月だよ
可東  あきれたね、記念すべき本邦初演を忘れるとは
川田  いやそれがその、前に言ったように、いつの間にか、もやもやっと、出来ちゃったんですからね、どうもハッキリした区切りがないんですな

あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号

と回答している。

『川田晴久読本』内、「川田義雄の半生期」で瀬川昌久は
五月二十一日初日の第五十八回『ブリュウ・ジャケット』の第一二景のタイトルが「あきれたぼういず」となっていて、川田、芝、坊屋、原伸三、三樹高雄が出演している
と書いており、これがおそらく「あきれたぼういず」という言葉が確認できる一番最初の公演である。

この第58回吉本ショウ「ブルージャケット」については、1937(昭和12)年6月号の『ヨシモト』誌に批評文が投稿されており、ここでも「あきれたぼういず」が確認できる。

 「あきれたぼういず」テーマがよく内容を裏書きしていて、ようやく浅草風な、インチキ(江戸前)性が、充分に発露されて、構成のマンネリズムを脱却している。
 坊屋、芝利英、川田の極楽トリオの醸成するコミカルソングで、就中(なかんずく)川田氏のジャズ・ソングのベースに対する浪曲ーー八木節、大声放歌は、けだし爆笑物にてインチキモダンボーイ、川田の面目躍如たるものがある。今後もこういったマンネリズム打破の奇想天外の構成こそのぞましきである。

安武千九(投)「第五十八回吉本ショウを見て」/『ヨシモト』1937年6月号

ようやく……マンネリズムを脱却している」という書き方からすると、これが初登場ではないようだ。
また、川田が「ジャズ・ソングのベースに対する浪曲」つまりあきれたぼういず以降の十八番芸となるギター浪曲をすでに披露しており、しかも高く評価されているのは興味深い。

翌7月号の『ヨシモト』では、先述した「六人」のあきれたぼういずが写真入りで紹介されている。
この写真はCD「楽しき南洋」ケース内側にも使用されているのでここでも見ることができる。

 あきれた・ぼういず
 吉本ショウの名物として最近大いにその好評を拍している御連中です。
 写真を御覧下さい、ウクレレとギターとで唄うギャグマンです。いろいろな唄の連鎖の中に唄のギャグをたくみに取入れたもので浅草ッ子を訳もなくうれしがらせています
 どうです、どれもこれもが不景気知らずのいとも朗らかな顔を並べているではありませんか。町田金嶺、川田義雄、芝利英、坊屋三郎、原伸二、三樹高雄、等の連中。

『ヨシモト』1937年7月号

「自分達で楽器を弾きながら、歌にギャグを織り込む」というのが、あきれたぼういずのこの頃からの持ち味だったようだ。
日本で最初のコミックバンドと称される所以である。

歌も司会も芝居もできる上に、グラン・テッカール時代からギターを使ったギャグを考えていたという川田をはじめ、ダンサーでありつつ益田とともにコントやギターも研究していた芝、大学時代からオペラからタップダンスまで本格的に学んできた坊屋、そんなオールラウンダーな面々だからこそ生み出せたスタイルだ。


【参考文献】
『これはマジメな喜劇でス』坊屋三郎/博美舘出版/1990
「ちょいと出ましたあきれたぼういず」坊屋三郎/『広告批評』1992年10月号より/マドラ出版
『ヨシモト 復刻版』/吉本合名会社/吉本興業/1996
「あきれたぼーいず座談会」/『映画情報』1939年新年号/国際情報社
『にっぽん民衆演劇史』向井爽也/日本放送出版協会/1977
『ジャズで踊って』瀬川昌久/サイマル出版会/1983
『吉本興業百五年史』吉本興業/ワニブックス/2017
「都新聞」/都新聞社


(7/16UP)あきれたぼういず、4人組に

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