【公演を終えて】カスケードとカテーテル #18

COoMOoNOは、明確な方法論と、主宰であり作・演出を務める伊集院もと子(以降もこさん)という明確な基準のなかで稽古し、作品を創っているので、「演技が習熟する」ということが起こる。

今回、演者は、少女を演じた20代前半の2名と、ABCを演じた30代前半の3名の計5名。本番は皆それぞれの役割を果たし魅力的だったが、稽古当初、演技に関して、この2人と3人とは大きな違いがあった。
30代の3名は、「相手と関係すること」が演技の前提としてある。その上で、もこさんの演出指示や自身の工夫でその場への居方、動き方などを決めていく。
20代の2名は、その前提から立ち上げる。そのために、これまで稽古日誌で書いてきた、「語尾で相手に物を渡す」「語尾でボールを相手に投げる」などと言った訓練が必要になる。※https://note.com/coomoono/n/na7fd8d774e80 実際にやった訓練方法については左のリンクに詳しいので参照されたい。
前作『 - ひきょう - 』に出演させていただいた経験から言えば、訓練中、もう何が何だか分からなくなる。自分のなかのどれが相手と関係できているという感覚なのか、関係できていないときはなんとなく分かるのだが、「これか?」と思ったときに「違う」と言われたりするので、頭のなかは泣き出したくなるような混乱である。COoMOoNOが配信しているラジオで俳優の畑中研人(以降けんとさん)が言っていたが、「何でできないんだろうというとき、普段の自分がすでに間違っているのではないかと考えてしまって落ち込んだ」(主意)。https://stand.fm/episodes/62656d3e6eeda0000607c1e0 左のリンクから聞いてもらえればわかるが、その落ち込みの深さは私からは想像しきれないものがある。しかしおそらく、今回20代の2人もその悩みを抱えながら舞台に立ったのではないだろうか。

普段の稽古場を見ていると、普段から会話やその場での関係が成立していないということは全く無い。日常において人は、話題の有無や関係の浅い深いを除けば、会話し、その場での関係を構築している、構築できている(できていない場合もあるが)。
それがなぜ舞台上で出来ないかと言えば、2人にインタビューしたわけではないが、私の経験では、「感情を表現するのが演技だ」という観念から抜け出せないからのように感じている。もちろん多くの演技者がそうであるように、舞台に立てばそれが誤りであることはすぐ分かる。感情などといったものは眼に見えず、俳優は身体と声とを武器にして、感情は観客に想像してもらうしかないと分かるからだ。
しかし、では代わりに演技者は何をすればいいのか? こう考えたとき、途方に暮れる。台詞の言おうとしたとき、「感情」を基にしないとなれば、どのように、何に基づいて抑揚を操作して、息を操作して、音量を調節して喋ればいいのか、全く分からなくなる。「感情を表現することが演技」の観念から脱しきれない。
この誤りは、感情だろうと何だろうと、依って立つものが実感に基づかない「観念」であることが原因している。「感情」も観念である。
では何に基づけばいいのか。「何かに基づけばいい」と考えて舞台に立っているうちは絶対に演技できないし、言葉にすると観念になってしまうが、あえて言語化するなら「生活実感」である。先述の通り、日常において人は本当に上手に関係をとって生きているから、その実感で舞台上でも相手と関係すればいい。
注意すべきは、ここで否定しているのは、「感情」への態度であって、存在ではない。「感情は持っていていいが、持っているだけ。台詞は相手に意味を明確に届ける」ともこさんがいつかの稽古で言っていた。
しかし、生活実感に依拠したいけれども、日常生活のようにはいかない要素が演者の前に立ちはだかる。「台本・演出」の存在、「観客」の存在、また、それら日常に存在しないものが存在することによって加速する「自意識」である。
日常にも自意識は存在するが、それが過剰になったとき、生活実感を感受することができなくなってしまう。ゆえに、もこさんが稽古場でよく言うように「演技の自己チェックは相手を見て行う」「台詞を言うばかりに気を遣うのではなく、相手の言葉をずっと聞き続ける。聞くことと話すことを同じ身体でやる」。
観念以前にある「相手」との関係を基にする。その際の関わり方は、「相手役を、普段のその人(演技者本人)だと思ってやる」。だからといって「相手」ばっかりになってはそれはまた自意識の罠にかかってしまうので、「普段の自分にめちゃめちゃしがみつく」「言葉を肚にためておく(適切な自分への意識)」もまた必要になる。
心の持ち方としては、「『私はこういう人だから』っていう開き直り、諦め」が必要だ。また、これはけんとさんがラジオで言っていたことだが、「自分を引き受ける」。つまりそれらは「覚悟」の様相を呈してくるが、訓練段階から一つひとつ、心持ちとともに実際的に、リアルにそこで関係を紡いでいく。結果それが、もうひとつの現実を会場の空間に立ち上げることになる。
怖いのは、これがまだ「訓練」段階、演技・演劇の「前提」の話ということだ。このうえで、見せ方を工夫して観客を錯覚させ、作品の方向性へ連れて行く。それは演出処理としても指示され、その指示は非常に重要だが、何より演者の「技術」が問われる。演者はここからが勝負なのだろう。

私がCOoMOoNOに対し、「良いなあ、すごいなあ」と思うところは、「感情」などと言った「観念」でやった気になることのできない「0地点」(普段の自分、生活実感)を演技の前提として置き、そこから先の「見せる」ということを、今回会場に入ってからゲネプロの直前に美術の置き位置を大きく変えたように、その場の最善の手段で選んでいく速度が非常に早く、演者もすぐそれに対応し作品としていくところだ。
COoMOoNOに所属していない外部の人間として言えば、まだCOoMOoNOの作品を観たことない方には、ぜひ一度、足をお運びいただきたい。今、ここまで「関係する」ということを方法化し実践に落とし込んで創作している団体は、私の知る限りない。きっと貴重な体験となり、面白いと感じてもらえると思う。

演出助手 寺原航平

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