【稽古日誌】カスケードとカテーテル #5

2022.4.13(水)

今日の稽古は、昨日と違うペアで、会話の稽古をしました。
3種類の稽古の仕方があったので、それぞれ書いていこうと思います。

  1. 語尾で相手にボールを投げる
    軽いキャッチボールのように、演者は立って、台詞の語尾で相手にボールを投げます。逆もまたしかりです。
    この稽古の目的は、「台詞と体の意識のバランスを捉えること」と「相手への意識、相手との距離感を意識し続けること」です。
    面白いことに、言葉への意識と体への意識のバランスが取れないと、ボールをうまく投げられず、うまく受け取れないということが起こります。逆に、意識のバランスが取れていれば、相手の取りやすいところに投げることができ、自分も簡単に受け取れます。台詞を言いながらも相手への意識を絶やさず、相手が取りやすいところに投げられるように意識のバランスを整える稽古でした。

  2. 台本だけを見ながら台詞を言う
    次は座って、相手を見ず、床に置いた台本だけを見て台詞を言います。これは「相手との距離感を意識し続ける」稽古の延長です。
    台本だけを見ながらだと、相手は視界に入りません。その状態で会話を成立させるには、五感(+第六感)の内の、視覚以外の感覚を研ぎ澄ませて使う必要があります。
    通常、眼の見える人は視覚に頼って生活しているため、他の感覚が鈍くなる傾向があります。しかし、それでは相手との距離を正確に測り会話を成立させることができません。そこで視界に入るものを台本に限定し、視覚以外の感覚をフルに使って相手との距離を測ることで、会話を成立させる稽古をします。

  3. 相手の台詞のあと、間を空けずに台詞を言う
    次は、相手の台詞のあとに間髪入れずに自分の台詞を言っていきます。これは「会話を成立させるために必要な集中力を認識する」稽古です。間を空けずに台詞を言い、しかも会話を成立させるためには相手の言葉を注意深く聴き続け、自分の台詞のときにははじめから相手との距離を正確に測り、音声を発する必要があります。
    少しでも相手への意識が緩み、自分の肚・体への意識が緩むと、すぐに台詞が不明瞭になり、相手に届かず会話が成立しません。だから台詞は、もこさん曰く「出して出して、引かない」、「どんな台詞も全て相手にかける」という意識で発する必要があります。非常に集中力を要する稽古です。

すべての稽古に言えることとして、もこさんが「(会話をする上で)最優先事項は相手の言葉を聴くこと」と言っていました。
会話には相手の存在が必要不可欠です。一方「自分」という存在は、会話の相手のようには対象化しえない部分があり、「相手に声をかけられる者」として間接的に認識できるに過ぎません。
前作の稽古でもこさんが「演技の自己チェックは、他人の反応を見ることで行う」( https://note.com/coomoono/n/ne4f7d14ed855 )と言っていたのを思い出します。会話が成立しているか、それは相手との関係の中でしか演者は判断できません。「会話を成立させよう」という自分の意識も、それ以前に相手の存在をまさしく認めることがなければ発動することはできません。
だから会話の稽古では、何より「相手の言葉を聴くこと」が重要なのです。

演出助手 寺原航平

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寺原君が稽古を見ながら自分なりに言語化して日誌を付けてくれるのを読むのはとても楽しく新鮮で、勉強になっている。
今回は、1~3と稽古の手法を記録してくれて、それぞれやったことはそうなんだけど、その目的について補足しようと思い筆をとる。
実は、この日やったのは全部「どうやったら身体から声が離れるかなあ?」と、順々にいろいろやらせて、どれが合うか試行錯誤していた過程だった。身体から声が離れる、とは普段自分が喋っている声がしっかり出せて相手まで届くということ・・・。距離やバランスが大事と寺原君は見たようだ。
演技は、普段自分が無意識に行っていることを意識することから始まる。ただ、もちろん演技状態でなくても意識して行っていることは日常でもある。自分の外にあるものを見ること、手に取ること、言葉を発すること、行為と呼べるそれらは大体が意識・意図を持って発せられていることで、演技も行為に関して言えば観察も容易で言語化しやすい部分ではある。
それが普段・日常と差がないか、つまり不自然で嘘くさく感じないかは誰もが注意して、より自然に、違和感なく見えるよう稽古していると思う。
コモノの稽古場では、確固たる演技の方法論を用いて訓練している事が他の稽古場と違うところで、その「論」の明快さと手法による変化の確かさが醍醐味なのかな、と自負。
ただ、一番大切なのは、その方法論を実践し、演技を確かなものにしていくということではなく、演技とはなにか、さらに演技・演劇を通じて、私たちはどうやって生きているのかを問うことにあると思っている。それは行為とは違い目に見えないし音として聞こえるものではない。
「今そこに、確かに存在している」と実感できるために全ての過程があり、その実感が、もうひとつの現実以上の現実を連れて来る。
どうしても方法論を追っていくと、演技を成立させることが目的となってしまいがちで、見ている者も演技が上手くできているかの観察に終始してしまう。
ひとつひとつの稽古の目的も確かにあって、それぞれのつまづきに合わせて方法を選んではいるけれど、出来た時にそれが本当に効いたかは正直わからない。
結局、出来ていないときは全て出来ていないし、出来ているときは全てが出来ている。
演じる方も見る方も、「今そこにちゃんと在るか」を常に問うて判断できる目と耳を養うことに尽きるんだな。

演出 伊集院


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