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批評という名の破壊~「雨が降ったってもう泣かない」

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COOL NOTERの皆さま。
本日は、当マガジンの総合編集長みこちゃんによる、千本松さんの作品、
「雨が降ったってもう泣かない」への批評を、ご紹介させていただきます。

まずは、本編をご一読ください。

■千本松さん作~「雨が降ったってもう泣かない」

「雨」をテーマに、それを作品を通底する軸として執筆された作品です。

雨降って地固まる。
雨はまた、赤道から運ばれた潜熱を高緯度地域にもたらす熱循環の――あるいは、生物の体内をも通った、地球規模での大きな循環の中での一形態。
その、雨だれの物語の一つです。

あるいは、これは登場キャラクターの「涙」とも対比されているのかもしれあません。

コロナ禍の中で、主人公には一つの終りがありそれが次の始まりへ繋がって、なにか急に道が啓けたようなそんなキッカケが与えられた。
小さくない、しかし小さな、でもやっぱり小さくない変化、兆しという言葉が相応しいのかもしれません。

でもそれも見方を変えれば、この数十年で未曾有の危機の中で、主人公の祖母をして「伝えねばならぬ」と決心させたもの。命を懸けて、賭けて、駆けて架けた想いなのかもしれません。

一奥には、この祖母こそが、本作の裏の主人公であると思えてなりませんでした。ただの風邪なれど、なれど、自らの死期をある意味で意識させられたからこその――孫の人生に新たな風雨を呼び込んで、そして地を固めて、その地をしっかりと歩ませたい。

そんな必死さが紡いだ、終りと始まり、出会いの一章。
雨=じめじめだなんてとんでもない。なんとも清涼にして、雨後の夜明けを思わせるような、明るい予感を感ぜさせる短編である――。

これを、みこちゃんは、当マガジンの運営サークルで徹底的に批評します。
少々ボリュームがありますが、その様子を、千本松さんが記事にまとめられておりますので、是非ともご一読ください。

小説、エッセイを、その他の文章表現形式を、読者に向けて本気で届けたい。そんな思いを持ったnoter達が集うサークル活動の、日々の一旦が、赤裸々に明らかにされていますね。

みこちゃんの「批評」の何たるかが、端的に凝集されています。
それは、次の精神です。

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■「感想文」は共感
■「講評」は自分の書きたい小説の方向性のヒント
■「批評」は自分の慣れ親しんだものの見方を破壊する創造的なもの

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みこちゃんの批評は、単なるプロット論だとか、千本松さんが求めていた「プロっぽい文章」を書くための小手先のテクニック論に限られず、また縛られません。

「携帯が鳴った。それを合図にするかのように雷が落ちた。雷の光で薄暗い病院の庭が一瞬照らされ、猛烈な雨が花壇の土をえぐっているのが窓越しに一瞬だけ見えた。」

こうすると、文の流れに因果関係がでます(元の千本松さんの「携帯が鳴った瞬間」の「瞬間」を雨をプロットして時系列的に逆算して配置したのです)。

私の印象では、千本松さんのこの短編では、全体のバックボーンとして「雨」はたしかに存在しているのですが、<雨がストーリの展開に挿入されていて、雨がプロットとして十分に機能していない>ように見えます。

このような感じで、雨の前後にプロットを仕組むと、全体が「雨」によって突き動かされる小説になると思います。

プロっぽさとは描写の丁寧さではありません。
プロットは大げさなものを大げさに逆算するというものでもありません。主人公の葛藤なんて言うものも必須ではありません。要素を選別して並べ直しても、並べ直し方が「そして」のままで因果関係を構成していなければ、いくら頑張ってもプロットなんかにはなりません。

そこは注意してください。

プロット論を入り口としつつも、みこちゃんが企図したのは、
『「プロっぽい文章」を希求する』という、千本松さん自身の慣れ親しんだ価値観の破壊なのです。

一見、新人賞なども参照した「テクニック」について論理的かつ体系的に、みこちゃんは示していきます。
そしてその中で、千本松さんは、自身の文章の特徴や、みこちゃんが例示した文章の特徴と、その細かな表現の違いがプロットやストーリーと、小説それ自体のモチーフに微細な、しかし大きなバタフライ効果を与えていく様に気付かされていきます。

そして、そうした観察眼の涵養を通して、初めてプロットを目的ではなく、有用なれど道具に過ぎず、それを通して真に小説をブラッシュアップさせるための視座を与えられることとなる。

個々の千本松さんが目指されている文体には非常に魅力を感じるものの、このプロット的意識がやや弱く感じられるため、補いたくなる接続詞が私は全て順接になってしまったのでした。

これは、プロット的に読解したのではなく、ストーリーを構成してしまったのだと言えます。

まずは、小さな「雨」の部分のプロットを見つめ直すことをお勧めします。

そして、2番めの大きなプロットを考えるという順番がいいと思います。

前回、モチーフというお話をしましたが、この2番めができればできたも同然です。つまり2番めをやるにはその練習として1番目ができるようになっている必要があるわけです。

モチーフ、ベートーヴェンで言えば交響曲第5番の「じゃじゃじゃじゃーん」ですね。あれは冒頭だけでなくて、終楽章に至るまでじつはそこかしこで使われているのです。

今回の「雨」はじゃじゃじゃじゃーんです。

このモチーフを効果的に表現として完成させるためには、大きなプロット作りができないとだめです。そしてその前提には、小さなプロットへの観察力を身につける必要があるというわけでした。

「プロっぽい文章」を書きたい。
あなたがそう望むのは、何故なのか?
みこちゃんの、文章を書く者達に対する、文章を書くことそれ自体に対する、根源的な問いがこのやり取りを通して聞こえてくるかのようです。

そしてそれに性急な答えを出すことや、与えることもまた、批評という営みの目的とするところではありません。

問いを目的化して道を見失うことなく。
なぜ、書くのか。
誰に伝えたくて、書くのか。
なぜ、伝えたいのか。

そうした、自分自身の内なるものに「再び」目を向けられるようにするためには――今囚われてしまっている『良いアイディア』を、一度破壊してもらうしかないのかもしれません。

この意味において、それは無に帰す破壊ではなく、創造性を取り戻すための破壊とも言えるでしょう。それは、作品に対する大きな信頼と、そして愛情が無いと、できない類の「破壊」かもしれません。

作者が気付いていなかった作品の魅力を、むしろ作者を論破して全力で洗脳する勢いで、怒濤の如く伝える。
それを通して、作者は「作品=自分自身の被造物」であるという呪縛から解き放たれ、その瞬間、生み出したはずの作品に「未知」と「驚異」と良い意味での「摩訶不可思議さ」を感じだすようになる。

作者自身こそが、作品のことを何も知らなかったのだと、まるで孵化して初めて外界に触れた、無垢なるひな鳥のような心地に至らされるのです。

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今回ご覧いただいたのは、千本松さんの作品を通して、千本松さん自身に、己が作品を見つめる視角を全く転回させてしまった、そんなみこちゃんによる「批評」の一幕――。

これが、私達THE NEW COOL NOTERの目指す批評です。

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