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【ショート・ショート】月餅

中華系シンガポール人Lee Pingは、その会社にほぼ20年以上勤めている。仕事は経理補佐、20年ただひたすら日系企業に勤務し、ほとんどのシンガポール人が毎月楽しむ旅行や食べ歩きもせず、仕事が終われば5時半には退社し家に帰る、家について夕食、そしてテレビを見て、就寝。そして朝が来れば30分早く会社に着くように出勤する。ランチは屋台の300円~400円のチキンライス、ヌードルを日々交互に食べる毎日。

洋服は黒いパンツに、数枚のストライプのシャツを入れ替わり着て、髪型は”おかっぱ”外見にお金をかけることは馬鹿げている、Lee Pingはそう思っている。

別にLee Pingはお金がないわけではない。シンガポール人が誰もが購入できる公団だって持っているし、それを今は人に貸し、自分は母の住んでいる公団に住んでいるので家賃収入もある。洋服にも食べ物にも旅行にもお金をかけていないし、リタイヤしてもお金には心配ない、でもお金がなくならないようになるべくお金を使わない。

これがLee Pingのスタイルだった。

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Lee Pingは自分の生活を、退屈に思うことはない。却って自分のルーティン通りにならないことの方がストレスだった。例えば誰かに誘われて、会社帰りに食事に行くといったような。考えてみればそんなこと何年もしていない。

その日もLee Pingはいつものように、会社のパントリーで一人チキンライスでランチを取っていた。そこに日本人の同僚の女性が隣に座りランチを取り始めた。この日本人女性とはLee Pingは、このようにたまにランチで一緒になる。今日も二人はたわいもない話をする。最近暑いね、エアコンを一晩中入れっぱなしで寝たわよ、など、シンガポールではどこでもある会話である。

会話は旅行の話題となる。この日本人は、休みの旅に色々な国に旅行をしているようで、その話をしている。Lee Pingは、20年前に行ったタイのこと、兄弟がブータンに行った話などをする。

「最近は旅行に行かないの?」と、日本人同僚はLee Pingに聞く。

「私は旅行に行く友達がいないからね・・」Lee Pingは答える。

「一人でも行けばいいんじゃない?近隣諸国なら一人でも楽しめるじゃない?」

「そうね、、そうしてみようかな」とたいしてその気もない回答をLee Pingはした。

日本人同僚は返事をすることもなく食事を続けたので、Lee Pingもそのまま食事をつづけた。Lee Pingのチキンライスを掬う音、その日本人同僚が食べるタイ料理の酸味のある匂いで空間は埋め尽くされる。

しばらくして日本人同僚は「Lee Pingが一番好きな料理は、中華料理以外、何が好き?」と聞いてきた。

Lee Pingはちょっと迷って、そしてしょうがなく「中華料理」と答えにならない答えをした。「へえ」と言ったまま日本人同僚は黙ってしまった。

シンガポールでは、質を問わなければ世界中の料理がリーズナブルに食べられる。それでもLee Pingは、自分が慣れている料理以外試してみたいとは思わなかった。そんなこと面白いとも楽しいとも思わなかった。興味がなかった。

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Lee Pingはどうしても何かに興味が持てなかった。そして何か新しいことをする勇気もなかったし、その勇気を持とうという考え方もなかった。もっと若い頃色々やっておけばよかったのか、と思うが、今となってはどうしようもない。しかし30も過ぎた人間達が、何故無駄なことにお金を費やすのか、ちょっともわからなかった。

その考え方は、Lee Pingをそのように育ててた両親の影響なのか、と思うことはあったが、両親に愛情一杯育てられてきたLee Pingは、別に自分はその考え方でいいと思っている。

お金は最小限に使い、決まったルーティーンを滞りなく毎日続ける、それの何が悪いのか。そんな毎日は争いもなく、アップダウンもなく静かな日々だ。夜が来れば眠る、朝が来れば起きて会社に行く。お金を使うこともないから、お金がなくなる心配もない、それ自体が幸せではないか、色々期待することもなければ裏切られることもない。

なのに何故人は、そんな私を時々かわいそうな目で見るのだろう、なんで「人生は短いのだから色々やらなくちゃ」というのだろう、そして何故自分はこんなに小さく感じるのだろう、時々Lee Pingは、自分の存在に抑えようのない怒りを覚えることがあった。

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シンガポールには、中華系シンガポール人の間で旧正月、端午節、中秋節、とお祝い行事がいくつかある。その行事になると、街にはその行事を祝うディスプレイで埋め尽くされ、お菓子やスイーツがあちこちで販売される。中華系シンガポール人は、それらをホームメイドとして作るところも多い。

Lee Pingもその一人であった。Lee Pingの家族、親戚は総出でそれらを作るのである。旧正月にはクッキー、端午節にはちまき、中秋の名月には月餅と。その時ばかりはLee Pingは張り切って買い物に行き、姪たちに下ごしらえを指示し、母親にメインの作業を担当してもらいオーブンで焼いてもらう。オーブン2台で作るその量はすごい数であり、近所に配ったり、親戚中に配ったり。こういったことはLee Pingの家族も、他のシンガポール人家族同様である。そしてLee Pingはいつもお裾分けで会社に持っていく。普段は大して口もきいてくれない日本人上司や外国人同僚が、思い出したかのようにLee Pingを見ておいしい、ありがとう、と口をきいてくれるのだった。

たまにランチを一緒にする、例の日本人同僚がLee Pingに言った。「毎年この時期、Lee Pingの月餅がすごく楽しみなのよ」と言い、「もう1個頂戴?」とLee Pingが中秋節のために作り会社に持ってきた、スノースキンタイプの月餅をつまんでいた。「今年の味は少し甘さを控えているの」とLee Pingが言うと、彼女は月餅の写真をFacebookに載せながら「そうだね、今年は去年より軽い味わいだったね」と答えた。微笑みながらその日本人同僚の姿を見ていたLee Pingは「家にまだ月餅あるから、明日あなた用に1パックもってきてあげる」と言った。すると彼女は携帯から目を離し、Lee Pingの前で嬉しさあまったポーズをして感謝の言葉をLee Pingに伝える。Lee Pingは嬉しかった。

一人でも毎年Lee Pingの月餅を楽しみにして「おいしい」と言ってくれる人がいる、それが何よりもLee Pingが味わいたい感情だったのだ。たった一人の感動が、自分を奮い立たせてくれるのだ。Lee Pingは、この日本人同僚がその気持ちを改めて認識させてくれたことに気が付いた。

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Lee Pingは、ルーティン通りの毎日を変えることもないし、旅行もグルメにも興味を示さないし。お金も最小限にしか使わないし、洋服もいつも似たようなもので充分。会社で言われたことは忠実に守り、ただ仕事を時間内で終わらせる。でも毎年のシンガポールの中華系のイベントで、こうやってお菓子を会社にお裾分けする。そしてみんなの笑顔や美味しいと言ってくれる姿を見るのは、彼女にとって最大の喜びであり、ルーティン以外の何物でもなかった。

自分には何か新しいことを始めたりする勇気もないし、世界を旅行して楽しむこともしない、それでいい、そういう自分でいい、その中で生きていく、これからも。Lee Pingは、嬉しそうにLee Pingの月餅を食べる日本人同僚を見ながらそう思っていた。








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