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【ショート・ショート】幸せな老人

「ストローラーは、結局見かけより重さがなんてたって重要。つまり持ち運びの時になるべく軽い方がいいのよ。」

そんな妻の声が、河川敷でうける追い風の音と、保育園で覚えてきたばかりの歌を繰り返し歌っている娘の声と共に私の耳に届く。まだ1歳のもう一人の娘は寝息を立てて眠ってしまっている。それにしても耳というものは、一度にたくさんの音を情報をとれるものなのか・・彼はぼんやり考えていた。今度は、河川敷を飛び回る鳥たちの鳴き声まで・・

鳥の声が、窓の外で聞こえ始める。目をあけて、我に返る。夢か・・自然にこの時間に目が覚める。いつからだろう、目覚ましなしに、この朝5時に自然に目が覚めるようになったのは・・

それにしてもずいぶんと昔の夢を見たものだな。彼は寝返りをうって、誰もいない自分の隣を、毎日自然とそうしている一連の動作で確かめ、身体を起こす。

◆◆◆

初夏の朝は、早くから始まる。ちょっと蒸しばむこの陽気、彼は起き掛けに白湯を飲み、水分補給する。庭に目をやると、その主人を待ち構えているかのように朝の目覚めを喜んでいる犬。窓をあけると、自分とこのいる以外誰もいないこの家に、日の出前の空気が流れ込む。

犬を連れて、軽く朝の散歩に出かける。いつもより遅くなったのだろう、急いで自転車をこぐ新聞配達の青年の姿が映る。「私だって読むんだから、新聞の順番変えないでね」と毎朝、妻に言われていたっけ。今度は前からキャビンケースを持って、こんな朝早くから駅に向かう女性が。こんな朝早くに、朝1一番の新幹線かな?と思いをめぐらす。いつからか娘も、やれ出張だ、海外研修だ、といい、朝早くからスーツケースを持って出かける娘を、車で駅まで送りだしたこともあった。俺たちの生活と変わらないじゃないか、という自分に、「パパ。やーね、最近は女性も男性もないの。必要があれば、どんどん1人で出張に行くのよ。あ、ここでいいわ、サンキュ~!」と彼がなかなか使い方を覚えきらないスマホで、新幹線に乗る為の電車の時間を追いながら駅に向かう娘の後ろ姿。トレンチコートが翻って、ライナーのチェックが見えた時、あいつ、いつの間にかあんな高いトレンチコートを着るようになったのか、と車のフロントガラス越しに見ていたこともあったっけ。

◆◆◆

家に戻り、自分のために朝食を作る。以前は3人で座っていたダイニングテーブルに、作った朝食と新聞。そしてTVをつけるが、耳で聞くためだけのTVとなっている。

新しい習慣となったのが、妻が大好きだった観葉植物を、再び世話をし始めたことだ。丁寧にお水をやる。昔、妻が話しかけながら植物にお水をやっていたが、それはしない。ただ黙々と丁寧に水をやる。それが朝食後の習慣となった。この時間、植物を置いている場所には、朝の光が柔らかくはいってくるのだが、そのたびに、彼は「俺のこの習慣をを見たら、妻は信じられない~!と言って笑うだろうな」と考える。

おっとりして、楽天家の妻だった。彼はその時代の流れで、常に残業をするメーカー勤務であったが、残業ばかりの自分を怒るわけでもなく、その条件や環境に合わせた明るいムードを家族の中に作れる、そんな妻だった。同僚はよく、「残業ばかりしているから、この時期の子供には、俺のことなんて記憶に残らないだろうな・・」とこぼしていたが、妻は遅くに帰宅した自分を、寝ている子供のほっぺを触らせてから食事をするように習慣づけてくれたこともあった。

そんな娘も、家で自分を見かけるときは、パパ、パパ、って追いかけてきた。できるだけ、週末は疲れていても出かけるようにしていた。女の子なのになぜか好きな戦隊ものを見に近くのデパートのイベントにいったり、夏は西伊豆にキャンプに連れて行ったり、ただただ彼女の笑った顔が見たいために。そして妻の好きな、窯焼きピザを食べさせてあげる為に、なんとかって有名なレストランまで、隣の県まで行ったこともあったっけ・・

幸せな思い出は、人の心に温かい気持ちを復元させる。それは現在もその温かさを感じ微笑むことができるように。過去も現在も未来も本当は同じ地点にあるものなのか、と彼は一瞬錯覚を覚えることもある。

日が高くなる。TVを消したので、家の中には時計の音しか聞こえなくなる。洗濯を終えて、のんびりまたお茶を飲む。今日は特に予定はない。夕方に買い物にいくくらいか・・

妻は娘が10代の時に他界した。いつかはこうなるんだからしょうがない、と思っていたが、やはりしばらくは堪えた。それは罪悪感でもあった。残業、出張の連続で、ほとんど家のことをまかせっきりだったし、もっと彼女にしてやれたことがあったのではないか、と思ったからだ。でもその頃にはまだ娘たちがいた。忙しい毎日と、そして親を失った娘たちを幸せにすることに必死だったから、妻の死を乗り越えられた部分もあった。長い休暇には、海外旅行にも連れて行ったりもした。いいですね、若いガールフレンドを2人も連れて、、とからかわれたりもした。そうしているうちは、再婚を考える余裕はなかった。

その娘たちも成人し、社会人になり、当たり前のように結婚をして家を出た。ウェディングドレスを着た娘たちを見て、いつの間にかに女性として魅力的な体系になったとぼんやりと思っていた。娘の幸せを思うと、とても順調な人生なんだと思う。俺が必死で働いて、不自由なく少女時代を過ごさせ、そしてどこに出しても恥ずかしくない、敢えて言えば自慢できるくらいの美貌とやさしさを持った女性たちとなり結婚し、そして自分に孫までできた。

これがきっと人生の流れなのだろう、と彼は思う。そしてこれからは?かつては笑い声が絶えなかったこの家に、今は響くこともない、笑い声を毎日聞いている、と彼は心の中で呟く。

俺は、と彼はひとりごちる。俺はただ家族のために必死に働き、仕事で成果を出し、愛する家族に不自由ない暮らしをさせて、少しでもいい生活環境や教育環境をあげるために必死で働き、そうやって生きてきた。それだけだった、ただ俺は必死だった。今の若者みたいに好きなことをやっていく人生というものより、俺にとって、会社で働き、苦労はするけど、なんとかやってこれて、そして家族に還元する。そう、家族の皆の幸せというものに人生を吹き込んだ俺は、俺にとって個人の夢を追うよりももっと尊いものだった。1つでも幸せで楽しい記憶を作りたい、作ってあげたい。それだけだったんだ。そういう生き方もあったんだ。

空腹を知らす犬の声で、我に返る。自分は何を正当化したいのか、自分は自信をもって歩んできた道を後悔しているのか。犬に餌をやりながらぼんやり考える。犬が、もっとご飯を!とせがんでいるのを目にきっとこんな歳にまでなって、今はやりのSNSやインターネットのニュースとやらに、変に影響されているのかな、と彼は思う。

最近使い方を覚えたばかりのスマホが鳴る。見ると娘からだった。

「パパ、元気?あのね、昨日釣りに家族でいってね。そうそう、昔パパが連れて行ってくれた千葉の入江。パパの都合がよければ、明日釣ってきた魚を持っていきたいんだけど。さばくの面倒?大丈夫、私たちでやるし、料理も作るわ。そのかわり、●●と遊んでね。そうそう、「幼稚園」って雑誌も忘れずに買っておいてよ~。あの雑誌は、じいじが買ってくれるものだと認識しているからさ~ははは。」

新鮮な魚が食べられると聞いて、もう1人の娘家族も参加すると伝える娘。昔の妻と同じような声を出して笑う。きっと明日は、この広い家が明るい声で一杯になるだろう。

ふと視線を目の前の犬に戻し、犬の頭をなでてやりながら、

「俺は、幸せだな・・」

そう彼はつぶやき、おかわりをせがむ犬の餌をとりに、キッチンに歩いて行った。



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