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『雪原でウサギは鳴かない』vol.2

 
「おまえも落ちろ!」
僕の剣幕に、その悪友は、まるで叱られた子供が湯船に浸かるように、ちゃぽんと、その金だらいの中にしゃがみ込んだ。
周りの、あっけにとられた級友たちの目も気にせず、僕は、道代の手を取り引き揚げると、そのまま先に立って歩き出した。
付いて来いとも、送ってやるとも言わず、ただ先導したのだが、日頃は気の強いところがある彼女だったが、僕の手を引っ張る力が強すぎたのか、「イタイっ!」と小さく言っただけで黙って付いて来た。
学校から1kmほどの道のりを、二人して黙々と歩いたが、興奮している僕の歩調に合わせ切れない道代の胸が、何度か僕の背中にくっついた。
濡れて冷たい、でもこれまで感触したことのない、その不思議なやわらかさが、僕の背中を刺激した。
道代の家の玄関に着いて、そのままの勢いで、僕が道代のお母さんに、ことのいきさつを申し述べようとしているのを察した彼女は、「もういいわ、ここで」と制止した。
 「あぁ、そうか。じゃぁな」と
そこで終われば良かったものを、僕は余計なことを吐いてしまった。
多分まだ興奮していたのだろう。(あ、いや、悪友の仕業に)
「道、おまえ、もうした方がいいぞ、アレ」
「アレって、何よ」
「ほら、ブラジャーとか云うやつだよ」
そこで、いきなり道代にビンタを喰らった。
その後、僕もそのまま家に帰ったが、誰にも会わなかったのは幸いだった。
左のほっぺたに、まっ赤な道代の手形が残って、しばらく消えなかったから。

「道、行ってくるぞ」、と心の中で言って、家の前を通り過ぎ線路を越えると、行く手は、一面雪に覆われて平坦になった田んぼと、その先にそびえる三角山だった。三角山は通称だが、どの方角から見ても綺麗な三角形の山が、本州最北端で踏みとどまり、忙しい海峡を見下ろして静かに佇んでいる。その、まだなだらかな斜面を持つ中腹辺りが、昨日罠を仕掛けて置いた場所だった。
昨日は、太一や健二たちとはしゃぎながら帰ったので、振り向きもしなかったが、いざこうして、正面に目的地として臨む山容は、バックに白々と後光のような朝日を隠して、子供心にも、手を合わせて拝みたいという気にさせる威容である。
そこからちょうど一時間、神々しいほど朝日を反射した雪原に、輝実はクラクラとめまいを覚えて、立ちすくんでしまった。
周囲は白の絶海。茫々たる、狂気にも似た神々しさである。
その時、寡黙な祖父が、よく口に出して詠っていた詩が、私の口を借りて飛び出してきた。
「耳のうつろを しほさい まひる鳴りふたぎ 鳴りこもり ひたひ灼く そらの焰のばらいろは くるめき奔り・・・」
僕の覚えているのはそこまでだったが、もちろん意味など知らず、ただ祖父の声が、いつの間にか身に染みついてしまっていたのだ。
作者を生野幸吉といい、祖父と同年代の詩人であることなどを、後年知った時、田舎の商家に婿入りしたと同時に、自らの夢を封印した寡黙な青年は、同世代の詩人の魂に、果たせぬ憧れを持って共感したのではないかと、『艱苦に駆る』という、その詩の題名から推して、僕の胸を熱くさせるものがあった。

そうして、ふと我に返ると、右手に動くモノがあった。
白い、ふかりとしたモノが、音もなく両足をばたつかせている。
「ゴクリ」と、自分の飲み込む唾の音が聞こえるばかり。
この世界から、音というものが消え、忘れ去られていた。
その白いモノの目だけが、地殻深く隠されたルビーのように紅いのだ。
首に巻き付いた針金は、しっかりと毛皮の奥に食い込んで、外からは見えず、それを逃れようとして踏ん張る両足は、却って、自らの首を締め付けているのだった。
 どれほどの時間だろうか、
僕は、傍らで身動き出来ずに、ジッと突っ立っていた。
多分、「早く事切れてくれ」と。
しかし、野生の生命力は、僕を試すかのように、暴力的なまでに強靱であった。
命あるモノが、命あるモノの最期を見とどける輪廻の理(ことわり)。
やがて、非情の掟だろうか、僕は、この日常の中の極北にいて、ある圧倒的な力に支配された。
そして、麻袋に忍ばせていたハンティング・ナイフを取り出した。
これも祖父から譲り受けた物で、柄が鹿の角だとだけ聞いていた。
やがて訪れる非情な結末との、隔絶した、どこか暖かい柄の感触だけがリアルだったが、不思議と、怖さはなかった。

最期までソレは、声を発することなく逝った。
辺りは、一面の白の絶海である。
そこに、ルビーのような、深い深い紅が残された。

 帰路は振り返らなかった。
ただ、黙々と歩いた。
帰宅すると、隣の二人が、ウチに上がり込んで待っていた。
どうも、朝ご飯もここで済ませていたらしい。
仲よく、ほっぺたにご飯粒を付けたまま、
「獲物は?」
と、身を乗り出して訊く。

「いや。何も聞こえるモノはなかった」
と、それだけ僕は答えた。

 (終わり)

 

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