「セロリ」

 この前ラジオを聞いていたら、山崎まさよしの「セロリ」が流れてきた。すれ違っても恋人のことが好きだと歌った名曲だ。

 だが私はこの曲のある部分に引っ掛かりを感じている。「ましてや男と女だから」という部分だ。考えや好みが違うのは性別が違うからなのか? 個人差ではないのか? とどうしても考えてしまうのだ。歌詞をご存じない方のために、歌詞検索サイトのURLを以下に貼っておく。

歌ネット セロリ

 私がこんなことを考えてしまうのには、理由がある。私は思春期に、女子グループから村八分にされるような少女だった。さらに実母とも意見の違いで随分もめた。こうした経験から、たとえ同性でも意見が同じとは限らないと強く思うようになったのだ。それはそうだろう。もし同性であれば意見が同じなのならば、よくあるホモソーシャルな集まりでは対立が生じないことになる。これに対して女の精神構造は単純だが、男の精神構造は複雑だから対立が起きると考えている人がいるかもしれない。それも違うと私は考えている。男性も女性も様々なバックグラウンドを持っている人がいるので、単純な二項対立で割り切れないと思うからだ。

 そういうわけで、私は「男は~」/「女は~」と語りたがる人を警戒している。ちなみに和泉悠氏の『悪い言語哲学入門』では「AはB」のような文、すなわち総称文について以下のように語っている。
「(2) 
a 正三角形は二等辺三角形だ。≪例外なくすべてのAがB≫
b 象の鼻は長い≪大半のAがB≫
c 蚊はデング熱を媒介する≪Aの中にはBもいる≫
(中略)
 このように同じ『AはB』という形の総称文でも、量に関してまったく異なった内容を表現します」(『悪い言語哲学入門』和泉悠 2022 ちくま新書)
 つまり「男は強い」とか「女は泣き虫」と述べた場合でも「強い」や「泣き虫」という性質がすべての男や女に当てはまるわけではなく、一部の男や女が強かったり泣き虫だったりするケースもありうるということになる。

 性差について語る文脈では、こうした総称文の性質も考慮しなければならないのではないかと私は考えている。同じ言語を話していても人によって解釈が違う。この事実こそがすれ違いの正体である場合は、往々にしてあるのだ。


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