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ヒグマのソテー(村上春樹風レシピストーリー)

「それは何?」
買い物袋から取り出した肉のパックを見て、脇に寄って来た妻は言った。
「ヒグマの肉だよ」
と僕は言った。
「ヒグマ?」
そう言って、妻は幼稚園児の女の子が写真を撮られる時にするように、首を傾げた。
「そう、ヒグマだよ。当別の店で買って来たんだ」
「なぜ?」
妻はまた尋ねた。
「わからない」僕は正直に答えた。「その答えを知りたいと思っているけれど、わからないんだ。とにかく僕はその店に入って、ヒグマの肉を買っていたんだ」
「いくらなの?」
「100gで600円ほど。それを200g」
「そう」と妻は声音も、声量も、全てが平均的と呼べるほどの声で言った。「あなたらしくないわね」
「そう、僕らしくない」と僕は言った。「まるで買い食いをする高校生のようだ」
「あなたが高校生だった時代に遡るなんて、相当に困難な作業なのに」
「そう、でも、僕はその困難な作業をやり遂げてしまった」
僕は肉を薄く切り、塩胡椒をまぶし、フライパンで焼いた。脂身が多い肉だったので、油は使わなかった。

「固いわね」焼き上がった肉を嚙みながら妻は言った。「臭みもなくて、味も悪くないのに」
「そうだね、とても固い」
と僕は答えた。そして根気よく噛み続けたが、どうしても嚙み切る事ができず、そのまま飲み込んだ。
「でも、なぜクマなのかしら」妻は最初の話題に戻っていった。「あなたにクマとの接点なんてないはずだけれど」
「記憶の限りにおいてはないね。僕の記憶が正確であれば、だが。山登りをしてクマに出会った事はない」
と僕は言った。
「あなたはそんなアウトドアのレジャーを楽しむ人間ではないし」
と妻はまた幼稚園児のように首を傾げながら言った。
「そうだね。それに街中でクマに出会った事もない」
と僕は答えた。
「それは当然ね。しかも、あなたは街中に買い物に出かけるような人でもない」と妻は退屈な実験の準備を進める女科学者のように腕を組んで言った。「もしかしたら、クマはあなたの中にいるのかもしれないわね」
「僕の中に?」多少の焦りと共に僕は答えた。「それは驚きだな。僕は自分の事を純粋なホモ・サピエンスだと思っていたし、これからも純粋なホモ・サピエンスであり続けたいと思っているのに」
「そう、あなたは純粋な人間よ」僕の言葉を冗談だと思ったのか、妻は微笑みながら言った。「でも、あなたのどこかに、そのクマはいるのよ」
僕はクマの肉と共に、妻の言葉を噛み締めようと努力してみた。そしてクマの肉を飲み込むことはできたが、妻の言葉は僕の口の中に残っているような感覚を覚えた。  (了)

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もしかしたら一生に一度の体験かもしれないと思って買ってみたヒグマの肉。思ったよりおいしかった。体を温める効能があるんだってさ。確かに娘は一切れ食べて「汗が出る!」と騒いでいた


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