嘔吐

表現を売ることへの嫌悪感が急に膨れ上がってきた。お金を得ることは大事だし否定する気は全くないけど、歌に価値が、絵に価値が、文章に価値が、映像に価値が、パフォーマンスに価値が付くことがバカらしく思える。
現実逃避するために音楽作ったりしてるのに、発表するプラットフォーム全てに金がかかっているのが嫌になる。
それに拍車をかけるようにサブミットだのあーだのこーだのやめたくなる。あと配信登録めんどくさすぎる。

みんなに聞いてほしいけどお金はかけてほしくない願望がずっとあって困ってる。イベントも極力安くしたいけど僕にお金が全くないので安くない値段設定になってしまう。

自分が作った物が発表された瞬間、自分ではなくなる。作ってる過程までは自分だけど完成したらそれはもう全く別のものになる。悲しいし悔しい。俺の作ったものは一生俺のもので誰かに理解とか共感とか批判とかされたいようでされたくない。

けど発表するということはそういう行為を必ず受けなくてはならない。嫌だ。
否定も肯定も全部自分を傷つけてくる。ただ傷つかないと生きていけず、何もしないともっと気が狂ってしまう。

今はただ儀式的に活動している。多くはない見てくれる人に向かって全力でモノを作り、発表し、良くも悪くも評価を受ける。そして嫌な気分になる。自分の中で活動がファイトクラブ的なものになりつつある。傷つくための儀式的な。

でかい舞台に立ってflexしたいっていう当初あったかもしれない欲求は完全になくなってしまった。BADHOPの東京ドームを見てラッパーになるみんなは楽しそうだ。けど誰も見てくれない状況でもやり続けるのだろうか?多分ほとんどはやめると思う。

俺もBADHOP見て始めてたらもっとギラギラした活動をしてたかもしれない。けどただ何者かになりたくて秋葉原のサイファーに行き、先輩たちが何も気にせず楽しそうに曲を作ってるところを見たのが資本主義的に見たら失敗だったかもしれない。

当時の秋葉原サイファーにあったのは究極の身内ノリでそれは自分自身だけに向けられたものがほとんどだった気がする。それを美しく感じたし、創作のあるべき姿なんだなと思ってしまった。忍者と極道で言うところの黄金だった。

サークルノリ(サークルに属したことないからわからない)だけど自分勝手に好きにすればいいんじゃない?みたいな空気が好きだった。だから今売れるためにとか考えるとむしゃくしゃする。そもそも商売があんまり好きじゃないし得意じゃない。肉体労働が1番性に合ってる。

プロモーションのためにMVを作る。正しいと思うけど面白くない。完成度の高さとか考えたくもない。
自分達を広げるために有名なアーティストを呼ぶ、正攻法だけどやりすぎなところまでは行きたくない。

今も昔もやりたくないことと否定したいことばかりで困っている。誰だ最初に絵に値段つけたやつ。ぶっ殺したい。そいつのせいで今は俺は苦しんでる。

社会の全てを否定するために俺はロリの百合の間に挟まるNTRおじさんとなって体制側を否定し続ける。物差しを折り続ける。

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