求められる作品と生み出される作品
↑描きかけの油絵
私の描く作品は、何というかコメントに困るものが多いと思う。
私自身も今回はこれを描きたい!!!ものすごく描きたいのだ!!
なんて、毎回描いているわけではない。
何となく‥ああ、こうしたら楽しそうだ、
これはこうしたならどうだろうか?
なんて相談しながら出来たものが
いつも生まれる
ナニカなのだ。
例えば、日本画やデザインなんかはある程度頭の中で固めてから描くと思う。
デザインはPC作業だろうから、細かい調整が沢山入るかとは思うが、
油絵はバンバン変えられる。
これはあくまでも私のスタイルなので、日本画のように固めてから1発で行なっている油絵画家も沢山いるだろう
が、
私は違う。
気に入らなければ消す。
描き足す。削る。また描き足す。悩む。
こんな感じだ。
だから画面が日によっては無茶苦茶動きまくるのだ。
なんて言うかな、まるで切られても動く蛸足のような‥
よく
「なんですか?これは。どういう意味ですか?」
と聞かれることがある。
そんな時私には
「こうした方が楽しい気がしまして」
なんてことは今まで言ったことはないが、
そんなものなのだ。
それはその時の自分の素であり感情である。
それではそのナニカが人に求められるのか?
自分はどこの層にどう言ったものを提供できる人材なのか?
自分勝手に生み出しているだけじゃ受け入れてもらえないのか?
これは全て半々である。
自分勝手に生み出したものが、たまたまその時代その瞬間にカチッとハマる時があれば
描きたくないけど、たまたま描いたものが受け入れられてしまう時だってある
だから料理人でいうなら
この人の所に来ればいつでも同じ料理を提供してくれる
恐らくこれがプロなのだ。
しかし、絵を描くものにとって
毎回毎回感情を生み出す様な作品に
同じものを提供するという事はかなりの難題である。
出来ている人はいるのだ。
しかし、感情を90%ころして描く作品に果たして私は愛を抱けるだろうか。
否、無理だ。
それが出来れば皆苦労しないのだ。
でもそれが出来ないからプロになれないんじゃなくて、常に生み出していないからプロになれないの方が確実に上である。
カチッと
時計の針が合わさる様に
確実に1人ずつ
生み出された己の愛を
受け入れてくれる他者を
見逃さないように、届けられる様に
自分から発信していく努力こそ
プロになるための一歩なのではないだろうか。
本日はここまで🐀✈︎
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