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大学生を振り返ってみる(中国編)

このnoteを見てくださっている方は「小中高を振り返って」「大学1年生編」「大学2年生編」「大学3年生編」「大学4年生編」などを読んでくださった方だと思うので、このnoteを各理由は省略します。

もし「あなたのnoteは初めてみるわ」と言う方がいらっしゃれば、以下のnoteを読んでいただけると簡単にわたしが自分のことを振り返っている趣旨や、わたしのことを知って頂けると思いますので、先にこちらに立ち寄っていただければ幸いです。「中国留学についてだけ興味あるんだよね」という方はこのまま記事を読み進めていただくのが正解です。寄り道をせずこのまま下にスクロールしていってください。

「小中高を振り返ってみて」
https://note.com/kamachu/n/n25324ae0021b
「大学1年生編」
https://note.com/kamachu/n/n7722fe84b2fc
「大学2年生編」
https://note.com/kamachu/n/n40cc44c7958b
「大学3年生編」
https://note.com/kamachu/n/n14ca377b35b7
「大学4年生編」
https://note.com/kamachu/n/n216bf056590d
「ポートフォリオ」
https://kilinsan.studio.design/

では本題に戻ってわたしの大学のことです。大学4年目から5年目に渡る話になります。「あれーおかしいな、大学って基本的に4年までじゃなかったっけ」と考えられた方は、ご考えになられた通りです。なのですが、私は大学4年生になるときに休学という選択をし、結局その休学期間を1年間から2年間まで引き伸ばし、その大半の期間を中国という国で過ごすことになります。今回のnoteは、その中国での経験を振り返って、綴っていきたいと思います。

実は中国にいた時はほとんどSNSを触っておらず、そのためInstagramやnoteが大好きな私もあまり情報を更新していませんでいた。そのため私としても初めてまとめることもあると思います。内容的にも多分あんまり人に話したことがないものもあると思うので、是非立ち寄られた方は読んでいってください。


- 中国編 -


中国に出発した日は2018年の10月10日です。当初予定していた日程は9月だったのですが、なぜか1ヶ月先送りになりました。その1ヶ月間は日本でシェアハウスの友人たちと遊んでいました。出発は関西空港からで、シェアハウスの友人と国際学生会議の際に参加してくれた子が見送ってくれました。


福建省福州市

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中国に留学と聞くと、一番最初にみなさんが頭に浮かべる地名は、「北京」「上海」ではないでしょうか。北京や上海には有名大学もたくさんあり、それらの大学は、日本との提携大学も多く持っているためだと思います。北京や上海でなくても、四川や天津といった場所なら「聞いたことがある」と思われる方も多いのではないでしょうか。しかし私が留学した先は「福建省・福州市」という中国にあまり詳しくない方ならあまり耳覚えのない場所でした。私も留学以前は「聞いたことあるような無いような」といった具合でした。

福建省は台湾の近くにあり、お茶や土楼といった歴史的建築物などが有名です。国家「211プロジェクト」に指定された重点大学でもあり、合計生徒は3万人を超える大きな大学です。この大学がちょうど2015年あたりから外国人留学生を中心に教育する学部を新設しており、私はその4年生の学部に2年間だけ留学することになっていました。結局1年半になるのですが、大学1年生ののときに熱心に勉強したおかげで、2年目の年からは大学4年生と一緒に勉強することになります。


新生活

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到着した空港には学校の職員が2人、私を待って待機してくれていました。1人は大学で4年間日本語学部を専修したらしく、流暢とはいえませんが、意思疎通するにはなんの問題もない日本語で、私に今日1日の予定を教えてくれました。もう一人ウズベキスタンから留学生も、この日に到着するとのことで、彼を待ってから福州大学まで向かいました。

空港から大学までは1時間弱かかるのですが、仮に私が運転していたとしたら、2時間はかかってしまうでしょう。別に私が中国の土地に詳しくないからといった理由ではなく、単純に走行スピードが早かったのです。飛行機移動で疲れていたのですが、安心して寝るなんてとんでもないというほどのスピードでした。後部座席にいましたが、しっかりシートベルトをし、固定された部分を強く握っていました。あとからこの運転手が高速で運転をしていたというわけではなく、この国、少なくともこの町ではみな猛スピードで運転するということも実感し、慣れていくのですが、この日は中国到着当日であったものの、死を覚悟しました。隣で座っているウズベキスタン人はすました顔で自分の顔がドアップで写っているスマホケースを嬉しそうに自慢してきていたので、社内ではマイノリティとなっていた私は、「ああ、これは動揺すべきことではないのか」と考えていました。

無事大学に到着したあとは、食堂に連れて行かれました。「食べたいものをいってください」といってくれるのですが、なにせなんて書いてあるのかわからないので、「うーん」と困っていると、彼女がお勧めのものを勝手に買って持ってきてくれました。味はめちゃめちゃ美味しかったですし、量も多いので、「流石にランチとはいえど500円はするだろう」と思っていましたが、後から中国語がわかるようになってその時食べたものを計算してみると、150円にも満たない金額でした。この食堂は学生数百人が同時に食事ができるめちゃめちゃ大きい場所です。のちのち知るのですが、大学内にはこのような食堂が5個以上あり、その食堂の中にはフランチャイズ店や大学専門店などがたくさん入っています。人気がなければ問答模様で入れ替わるので、結構シビア場所でした。

ご飯を食べた後は部屋に移動しました。自分がこれから中国生活を過ごす部屋への移動でした。福州大学は教育区生活区が分かれており、基本的に教育区では授業が行われ、生活区では食事をしたり、寮で過ごすようになっています。私が住むことになったのは生活5区でした。生活5区では留学生と院生が生活している感じでした。外観などは特に変わらないのですが、中国の一般学生が4~8人で1部屋なのに対して、生活5区の我々は2人部屋です。この優遇には現地の学生も不満を持っていたようでした。奨学生の留学生たちは寮費、学費は免除で、なんならお小遣いまでもらって生活しているのに、部屋まで快適に過ごせていたのですから。中国人学生たちに同情しましたが、私は受けられる恩恵を存分に受けていました。

さて2人部屋なので、私はもう一人の外国人留学生と一緒に住むことになります。私の部屋は6階にあったので、6階までのぼって、廊下を歩いていると、5人くらいの集団がこちらに向かって手を振っていました。彼らは私が留学滞在中に一番仲良くなるグループとなるのですが、といっても私はあまり友達がいなかったので、彼らにはよく遊んでもらっていたという感じです。彼らは中華系のマレーシア人で、私と同じように奨学金を受けて留学していました。グループの中に、一際大きい男の子がいて、彼の名前はRENと言いました。彼は頼まれたら断れない性分で、いつも周りには彼にレスキューを求める人たちで溢れかえっていました。とにかくとっても優しい男の子です。年齢は私の2歳下で、家は超お金持ちでした。私はお金持ちと一緒に暮らすことが多いようです(アメリカではサイズアラビア人のお金持ちと一緒に暮らしていました)。

さてさてルームメイトとも会った後は、その日の任務はほぼ終了でした。先生についたよーと連絡をしてクラスについての連絡を受けた後はもう自由でした。私は留学を他の国でもいくらか経験していたので、本来であればここから銀行を開設したり、生活に慣れたりといろいろ大変なのですが、この学校では生活サポーターの大学院生を雇っており、彼らがほとんど助けてくれました。この学校には私ともう一人の女性YUIしか留学生が来ていなかったのですが、心配していたのか、私たちに興味があったのか、サポーターさんたちは私たちによくついて回ってくれていました。



中国語

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「それで、おまえさんは何をしに中国に行ったんや」と思われている方もいるかもしれません。そんな方に対してお答えしておくと、私は「中国語」を学びに中国に行きました。とはいえ、もともと中国にゆかりのあるバックグラウンドを持っていたわけでもありませんし、大学で中国系の何かを専攻したというわけでもなかったのですが、強いて言うなら「第三言語の習得による自分磨き」といったところでしょうか。英語に加え、中国語も話せる存在になることによって、常に感じていた劣等感を取っ払い、自分にまた自信が持てるのではないかと考えたのです。こういったスキルに対する欲望が、正直のところキリがなく、ちょっと広く周りを見てみると、5カ国後話者、とんでもない人は「20か国語話すよ」、なんてこともあるのです。しかしそれでも客観的な数字から考慮しても、バイリンガルよりも断然トリリンガルが稀有でした。普通が嫌だったのです。結論今でも周りと比べるとよく劣等感は感じますし、自分の未熟さや、過去の怠慢には腹が立ちますが、それでも以前ほどではなくなりました。私のような心が弱い人間にはきっと、護身できる武器が必要だったのでしょう。私にとっては中国語がその役割を果たしてくれました。

しかしまあ留学当初は挨拶もろくにできず、生活は困難を極めました。生活サポーターの方がいなかったらきっと寂しさと空腹で帰国していましたが、彼らのおかげでなんとか最初の大変な時期を乗り越えました。それでも相変わらず中国語は話せず、もう一人の日本人の友人は2年生からスタートしたのに、私は1年生から基礎を叩き直すことになりました。

正直この結果は非常に良かったと思っています。なんたって基本レベルの中国語で一番難しいのは発音で、そのほかは現地で勉強すれば、嫌でも数ヶ月で習得できます。その発音を基礎からちゃんと教えてもらえたのは1年生から初めて良かったと思えた理由の1つです。そして何より燃えました。「私の専門分野(言語学習)で同じ日本人や他の外国人に引けを取ってはならない」と細胞レベルで叫んでいたので、これが学習のスピードに拍車をかけました。

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これから1年半に渡る中国語の猛勉強が始まるわけですが、めちゃめちゃ細かく書くと、

「語学学習の際にどういった考え方で取り組めがいいのか」
「スキルレベルでどういった勉強法があるのか」
「中国語においてであればどのように勉強すればいいのか」
「おすすめの勉強媒体はあるか」

などなど、書けすぎてしまいますし、それだけで10,000字は超えてしまいそうなので、また気が向いたら別のnoteか何かでまとめることにします。もし興味がある方は私個人に仰ってきていただければ、いろいろ教えられると思います。たぶんですが。

簡単に中国語がどのくらいできるようになったのかをこちらで書いておくと、

2ヶ月目で離脱ポイントを抜けました(私のなかで、「そこまでできてたらもうその言語習得したも同然やで」というラインがあるのですが、大体独学であれば1年、現地で留学するのであれば半年で抜けられると思います)4ヶ4ヶ月目でHSK5級に合格
6ヶ月目にはHSK6級に合格
12ヶ月目ではHSKK高級という口語テストに合格
その数ヶ月後では学校代表として朗読大会やスピーチ大会に選抜

1年過ぎた頃には、日本語を4年間勉強している中国人学生たちが、「中国語の方が絶対意思疎通しやすいわ」ときっと思っていたのでしょう。ずっと中国語で普通に会話ができるくらいまでには成長しました。

中国語は簡単で楽しくその気になば独学でも全然習得できる気がします。私は留学したので説得力がありませんが、勉強方法は至ってシンプルだし、時間さえ準備したらやるだけなので、もし勉強しようと思われている方がいらっしゃったら、できると思うので、始めてみたらいいと思います。



クラス

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せっかく現地にいるので中国語の授業も受けます。レベル1にいたのは私を除いてインドネシア人、キルギスタン人、タイ人、ラオス人、イラン人といった具合でした。レベル1のクラスは2つあり、もう一つのクラスにはブラジル人やベトナム人、ウズベキスタン人など様々でした。

学校の先生は大学院講師ではなく「国际汉语教师证书」という資格を持つ人、また取得するために勉強している人が、クラス毎でもらう給料で行っていました。22歳から30歳までの女性が多く、授業は学校側がめちゃめちゃ指示を出して行うといったわけでなく、彼らがそれぞれ自分のスタイルを持って教えていくといった具合でした。

私はこの「自由」過ぎるスタイルに最初はなかなか慣れませんでした。なにせ生徒も教師も若いのに、規律側の調整があまり行われていなかったため、大きなため息をついてしまうようなことは何度かありました。また学力の調整を行われていませんでした。それもそのはずで、奨学金をもらうためにテストのようなものは基本的には存在しておらず(一部東南アジア諸国を除いて)、基本的にはどの国でも立候補の早いもの勝ち制でした。

ですので「お前の長期記憶を司る脳の部位はどこへ行ってしまったのだ」と言う場面にも遭遇しましたし、単純に「勉強をする」という事柄に対して集中力を継続できない学生が多かったように思えます。これを思うように統制できない現場教師と、あんまり現場には関心を持たない学部の管轄教師たちの噛み合わなさが絶妙で、教室はたまに動物園と化しました。

それでも幸い悪意を持って行動する悪い子がおらず、みんな純粋で平和はちゃんと存在していたので、教室がネガティブでどんよりしているということはあまりありませんでした。私個人も楽しく勉強できたと思います。しかしまあクラスはこんな感じだったので、自主学習に頼らなければいけない比重は大きかったです。特に最初の方は遊んでいられる時間がありませんでした。と言うか私自身遊ぶとして設定した時間よりも、何かを勉強するとして時間を使う方が気が楽になっていたので、結局留学を全体的に見てもそんなに遊んでいた回数は多くないと思います。まあ多い多くないなんて人それぞれの価値観の問題ですが。



日記

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そういえば中国語で日記もつけていました。留学開始から2ヶ月後の12月11日からスタートし、365日間続けました。私の中国語の基礎能力、タイピングスキル、発音、抑揚の付け方など、ほとんどのスキルはこの活動の経過によって爆上がりしました。

実はただ普通に日記をつけるだけでなく、先生にチェックしてもらっていたのです。やり方はシンプルで、まず私が300文字から500文字程度の文章を作成し、それの読み練習をした後、声に出して読み上げ、録音します。録音した後は先生に文章と一緒にMP3にして送っていました。この音声と文章を先生が毎日欠かさずチェックしてくれていたわけですが、ただチェックしてくれただけでなく、自分でも声に出して読んで、それを私に再度送ってくれていました。これをまた私が復習するという、至ってシンプルですが、めちゃめちゃ効率が良さそうなやり方を毎日実践していました。付き合ってくれた先生には頭が上がりませんが、これによって私は自分用の最強教材も作成し、経過を確認しながら勉強していくことができました。いやまじで感謝です。彼女は将来恩返ししたい人の、めちゃめちゃ上位にランクインしています。



国際文化祭

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中国語を話せるようになるには、適度なインプットに加え適度なアウトプットが必要です。アウトプットとしては会話がやはり一番いいと思うのですが、もちろん現地人との会話が一番効率よく成長できると思います。しかしながら現地の人と交流の機会を持つと言うのが難しいために、言語学習というカテゴリーはいまだに学習が困難であると言う部類に位置づけされているわけです。国内にいながら現地の人と会話を継続して行うのはなかなか至難の技なため、現地に赴くのですが、現地にいるからといって超簡単に中国人と話せるわけではありません。誰と興味関心が合うのかなんて話してみないとわからないですし、双方にとって基本コミュニケーションがうまくいかないことを前提とした忍耐力と受容力が必要です。この国際文化祭というのは、そんな留学生と現地の学生との交流をもたらすものでした。

国際交流会は年に1度、国際部という院生サークル団体によって実施されます。この団体が発足したのはわずか数年前で、国際文化祭を本格的に始めたのは、私が留学するわずか1年前の2017年からだというので、とりあえず私はラッキーでした。現地の留学生とそれぞれの国籍を持つ留学生がチームとなり、約2週間程度の準備期間を経て、ブースの出店と、舞台演技を行います。基本的にどの国のチームにも5人以上の留学生がいたので、サポートとして入る現地学生は3人がマックスでした。

しかし私たち日本人は、今年が初めての受け入れだったことと、その受け入れで参加できたのが2人だったこともあり、5人の現地中国人メンバーがサポートで入ってくれました。当日は私がもともと寿司屋で働いていたこともあり「寿司」と、制作が比較的簡単で数を生産しやすい「たこ焼き」を作りました。それなりに人気でしたが、それより私たち日本人2人が着物をきていたので、そっちとの写真撮影の方が人気でした。私とは違いもう一人の留学生はお人形さんみたいな顔をしているので、終始引っ張りだこでこの活動を終えたと思います。

これは悔しい思い出なのですが、どこかの留学生が、文化祭を取材に来た学生記者に中国語が上手な人として私の名前をあげたらしく、それはそれで光栄なのですが、事実とは反するものでした。というのも国際文化祭が行われたのは12月で、私が中国語の学習を初めてから2ヶ月も経過していなかったのです。インタビューをしたいというので、質問を聞いていましたが、正直中国人が普通のスピードで話して何をいっているかはまだまだわかりませんでした。その結果意思疎通があまりうまく取れておらず、お互い少し気まずい空気になり、最終的にインタビュー側が「これくらいで大丈夫です」といってそそくさとさっていく結果に終わりました。これは少しどころかなかなか屈辱だったので、来年はこのインタビューで上手に話すと密かに誓いました。(結局次の年のインタビューで雪辱を晴らせました!

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マラソン

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人生初のマラソンは中国でした。ハーフマラソンでしたが21キロというのはまあ長いです。42キロは無理な気がしました。私はなんでもやってみたいという性格で、友人が丁度できた友人がマラソン大会に参加するとのことだったので、私も一緒に走ることにしました。ラッキーなことに彼女はこのマラソンに向けて走り練習をするグループに所属しており、そのメンバーにも追加してくれました。

彼らは結構真面目で、走る人はほぼ毎日走っていました。これは私に取っては非常に好都合で、運動しながら生の中国語が聞けるという、今日効率的かつ健康的勉強法でした。毎日走るメンバーは大体5~6人で、かれらは平均5キロ、多い時で10キロ走ります。本当にずっと話しながら走るので、私はここで現地人の話し方をインプットしていました。ここで得た効果は結構凄まじく、最初は全くわからなかった彼らの会話がマラソン当日近くでは60~70%程度わかるようになっていたのです。初マラソンの参加は予想外の恩恵をもたらしました。ちなみに21キロはしっかり完走し、タイムは1時間59分でした。マラソンが終わってからも毎日ではないですが、彼らとは走りに行っており、本当に良い仲間ができたという感じでした。



サッカー

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もちろん海外にいけばサッカーも必ずやります。しかしこの留学期間でのサッカーはあまりうまくいきませんでした。というのも既にチームができており、彼らがなかなか試合に出してくれなかったのです。学部対抗で試合があったのですが、結局私が試合に参加できたのは開幕から2試合目の残り10分からといった具合でした。それでも1ゴール2アシストできたので、まあ相手が弱かったのですが、チームのみんなも多少は使える人員だとわかってくれたらしく次からはスタメンで使ってくれるようになります。とはいってもこの「次」が私の福州大学での最後の試合になるのですが笑

このときは試合が毎週水曜日にあり、私は授業が終わったらすぐグラウンドに向かっていました。これまでやってきたチームよりガタイが良かったので、強いのかとチームメイトに聞いてみると、毎回うちと1位、2位を争うチームだと言います。それは楽しい試合になりそうだと意気込んでいたのですが、試合は開始5分ほどで終了し、うちが負けてしまいます。うちのチームのキャプテンと副キャプテンはニジェールとナイジェリアからきたガタイのいい留学生で、サッカーも上手なのですが、堪忍袋の緒が、細すぎてすぐ切れる二人でした。

わたしはその日左サイドでプレーしていたのですが、開始早々うちの副キャプテンが喧しいので、ちょっと近づいてみると、何やら審判に喧嘩を売っていました笑。側から見てもものすごい怒鳴っていて、収集がつかなくなりそうだったので審判がレッドカードを出すと、今度はキャプテンも同じくらい煩く怒るので、彼も同様にレッドカードが出されました。それからなにやら彼らの国の現地語で「やめだやめだ」みたいなことを言っていたのでしょうか。まあそんな感じで、会場を出て行きました。続ければ良かったと思うのですが、よくわかっていない他のチームメンバーも会場を後にし始めるので、「こりゃダメだ」と思い私も帰りました笑

よくよく話を聞いてみると、彼らが使用禁止のスパイク(サッカーシューズ)をずっと履いているとのことでした。前からずっと注意されていたのに履き続けるのでまた注意すると、起こり始めたとのことなので、もうちょっとどうしようもないかなという感じでした。結局これが原因でうちのチームは2年間試合禁止になります(これもちょっとひどいと思いましたが)。きっと前々からすぐ怒っては荒いプレーをするので一緒にやりたくなかったのでしょう。2年という期間はちょうど彼らが卒業を迎えるまでの期間でした。異国間の交流では、このような少しの文化の違いが生み出す会話放棄のようなこともよくあります。

とまあこんな感じで、サッカーができるのは遊びでだけになってしまいましたが、よくグラウンドに行っては友達とサッカーをしていました。



日本語学科の学生

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中国の大学には外国語学部を持つところがたくさんあるのですが、日本語学科はほぼ全ての大学にあったのではないかと思います。福州大学も例外でなく、日本語学科を持っている大学でした。基本的にどの学校にも最低1人は外国人教員がその学科に入っているそうなのですが、福州大学の日本語学科には2人の日本人先生がいました。卒論を一人ひとり見てあげたり、授業もきちんとされていて、忙しそうでしたが、楽しそうな仕事だと思いました。将来私も現地で日本語教師をやっているかもしれません笑

なにはともあれ日本語学科の学生とは国際学生会議のときから知り合い、たまに遊ぶ仲になりました。最初は彼らと話すときは日本語で話していたのですが、最終的には中国語で話すことになっていきます。これは短期間で語学能力が上がったということなので、私の自慢でもあります。言語動向に限らず、非常に仲良くしてくれた友達グループの一つで、誕生日も祝ってくれたり、中国の祝日になれば、「何をする祝日で」「何を食べるのか」について教えてくれました。



友達

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最初の方でも書きましたが、マレーシア人の友人たちは私と仲良くしてくれました。学校のすぐ近くには「学生街」という場所があり屋台や夜市がある場所なのですが、彼らは毎晩そこでタピオカを買い、夜食を買いケータイでゲームをします。毎回誘ってくれるのですが、めちゃめちゃお腹が減っているとき以外は行きませんでした。本当に一生ゲームをするだけなので笑 きっと彼らは小さい時からたくさん勉強をさせられてきたのだと思います。若干20歳で5カ国後を使いこなし、私が全く理解できない数式のようなものを何時もめんどくさそうに、でも簡単に問いていました。「大学生になったんやからちょっとは遊ばせてーや」って感じだったのだと思います。親から離れて一人暮らしなんてことも初めてだったのでしょう。毎日疲れ果てるまで遊んでいました。

あとちょっと大人っぽいところがあったように思います。みんな私より年下の子ばかりだったのですが、たくさん遊びはするものの、何か悟ったような態度でいるときがありました。人生経験が豊富なのかもしれません。それでも私のルームメイトのRENもそうだったのですが、ポムポムプリンみたいでかわいいところもあり、私はたまに観察日記をつけていました笑 題名はそのままで「ポムポムプリンの観察日記」です。



笈川日本語特訓合宿

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中国の大学にも1年間に2回の長期休みがあります。留学生は自国に帰る人が大半ですが、私は2年間は中国語を勉強すると決めていたので、中国に残っていました。10月から留学を始めたので、最初の長期休みは冬でした。冬には春節(中国の年越し)があるため中国人は皆実家に帰ります。友人が「うちで一緒に年越しをしないか」と誘ってくれてはいたのですが、当時の私は余程勉強がしたかったのか、理由をつけて断りました。

冬休みは本当に人がいません。町の店も閉まってしまうため、あれだけたくさんある食堂も1つしか開かなくなります。本当に留学生しかいないといった状態でした。「これなら年越しに混ぜて貰えば良かった」と少し後悔しましたが、ルームメイトは実家に帰っており、部屋も使い放題だったので、朝から晩まで自分の好きなように使って過ごしていました。確かこの期間にとんでもない量の中国映画/ドラマ/芸能番組を視聴したように思います。これも一種の勉強だろうと思いながら、夜通し見ていたときもありました。

夏の長期休みではイベントに参加することになります。なんでも、中国の超有名大学で日本語を教えている「笈川さん」という方が、毎回長期休みで日本語特訓合宿を開いているとのことで、毎回400人もの中国人学生が全国各地から参加するとのことでした。日本人のボランティアも受け付けているとの噂を耳にした私は、早速申し込んでみて、参加することになりました。とりあえず北京に行ってみたかったのと、中国人の福州以外同世代と繋がってみたかったのが大きな理由です。

北京とは言っても辺鄙な場所で、駅についてからバスを日本乗り継いで、2時間かけてやっと到着しました。最初は全体統括をしていた汪さんという方が対応してくれました。彼は私の1個上か2個上なのですが、びっくりするくらいしっかりしていて、日本語もペラペラでした。何より自信に満ち溢れていて、変な人でしたが、明るい雰囲気で好きでした。とりあえずこの人からいろいろ説明を聞いた後にゆっくりしていると、後から他の日本人学生もぽちぽちやってきました。彼女たちはみんな北京で留学していて、北京外国語大学の本科生2人と、北京言語大学の留学生1人といった感じでした。運営はこのメンバーと日本語が上手な大学院生せきで行うことになりました。

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イベントが始まってから気がついたのですが、数百人を相手にするには、まあマンパワーが足りませんでした。朝から晩まで動き回って毎日超疲れていたのを覚えています。それでも私は一応インターンとかもしていたし、この頃は中国語もそこそこ話せたし、何より唯一の男性日本人学生だったので、結構重宝されていました。こういう「役目のある忙しさ」みたいのものは私の大好物だったので、長期間のハードワークでしたがめちゃめちゃ楽しく過ごせたように思います。なんなら楽しすぎて、もともと1期間(10日間くらい)だけ参加する予定だったのに、2期目にも参加することにしました。
→結局1ヶ月くらい北京にいました。

そもそもこの笈川日本語特訓合宿というイベントがよくできていて、地方から参加を希望する日本語教師に参加してもらうことで、オフィシャル感を強めたり、このイベントの卒業者で現在に日本語を駆使して活躍している先輩を読んでイベントしたり、言語学習の方法がちょっと変わっていたりと、根っからおもしろいイベントでした。

参加者も狭い宿舎に文句を言っていましたが、その距離の近さが逆に会話をたくさん生み出し仕掛けになっていたり、郊外でやることで街に黙って繰り出すことが最上級のごほうびになっていたりと、「よくできたイベントだな〜」と最後の方はずっと思っていました。正直また行きたいです。もし中国に留学を考えている方で、このイベントが気になった方がいらっしゃったら、楽しいので参加してみてください。



スピーチ

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大学の1年目が終わる頃には私の中国語はテストの結果から見ると留学生で一番になっていたので、学部管理の先生が4年生に上げてくれました。4年生の授業は論文などもあってめんどくさかったですが、ディベートやディスカッションなどで扱うトピックが難しく、クラスが動物園みたいなこともなかったので、自分としては大満足でした。この時期くらいから大学の代表でスピーチをしてくれと言われたり、勉強の方法をみんなにシェアしてくれと言われたり、学校代表でスピーチしに行ってくれと言われたりするようになりました。勉強しすぎて周りからも一目おかれており、「超人」というアダ名が一部ではついていました笑 

とはいえとっても光栄だしラッキーなことで、なんといってもこう言った形で代表されると、他の州や街に学校のお金で行くことができるのです。スピーチの大会はまさにそうで、移動からホテルのお金、生活するお小遣いまで学校が出してくれました。



太原

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一年目の年越しは1人だったのですが、2年目は中国人の友人と過ごしました。もう一人の日本人の子がその子と仲良くなって、私はちょっと紹介してもらった感じです。彼が住んでいたのは中国北部にある山西州の太原市というところでした。中国の年越しはめちゃめちゃ面白いです。面白すぎてメモをまとめており、メモはシリーズ1だけでは足りず、シリーズ2まで引き続いています。ここに追加すると文字数がヤバくなりそうなので(既にめっちゃ書いた気がする)、また別のnoteに書いて、リンクだけここに貼り付けることにします。1,2個だけでも紹介しておくと

■寒すぎてマイナス1度とかはちょっと暖かくなったねみたいな感じ(因为太冷她们的温度的感觉都麻痹了)
こっちにきてから、−20度とかの世界で生活してるので、なんか−1度とかの時に「今日はちょっとあったかいね!」とか言われたら確かにそう感じるんだけどよく考えたら面白い!
■子供を連れて年末に. 年货を買うことがきっと幸せなんだろう(把孩子带去购买就是他们的幸福)
この家族と一緒に昨日と今日(1月14日と15日)でいろんなものを買いに行った。例えば今日は年货と食材を買いに行った。お母さんは子供たちと一緒に買い物ができて本当に幸せそうだったし、外部の人間として、この空間を邪魔したくないなという感情が湧いてきた。でもよく考えたら、ユーチェンが俺を助けてくれる姿や、お母さん彼女自身が気前よく色々買ってくれることは、彼ら自身にとってもいい感じに幸せをもたらしている気がして、それはそれでいいのではないかと考えるようになった!でも実際にとってもいい家族で、おじいちゃんや家族みんなととっても仲良しだし、本当にいい家族だなと思った!何より自分たちが自分たちのことをいい家族だって言えることがとっても素敵なことだと思った!

こんな感じのがたくさんあります笑

以下リンク
→いつかここにリンクが貼られます


帰国

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この太原から福州に帰ると私はすぐに帰国することになります。感が良い方は気がついているかもしれませんが、私は2018年10月から留学をはじめていたので、1年半ほど経過していたこのときはコロナの真っ最中でした。春節だというのに街からは人が消え、咳をすることがこの世で一番悪いことなのじゃないかと思うほどにきつい目を向けられる。そんな時期の真っ最中だったのです。私はもう中国でやりたかった言語学習に関しては満足のいくところまでいっており、あとはのほほーんと残りの半年を過ごそうとしていただけなので、いろいろ考えた結果「帰国する選択をした方がよさそうだ」という結論に至りました。VISAが切れそうだという問題や、パスポートの有効期間が足りないかもしれないという問題で、結構ピンチだったのですが、なんとか日本へ帰国し、故郷広島へと帰りました。



まとめ

まとめ


簡単に(それでも長い)ですが、中国編はこんな感じで締めくくろうと思います。中国や私について全く知らなかった方も、この記事を通して少しだけでも何か考えることなどがありましたら、私としては幸いです。次回で一番最新の私までアップデートできる予定です。全部読んでくださった方がいらっしゃったら多分4万字くらいの文章を読んでこられていると思うので、まじで天晴れです。すごすぎ。ちょっと暇なんじゃないですか。嘘ですごめんなさい。私が一番暇です。次回の内容はとこれまでの内容をいかに簡単にまとめておきます。

「小中高を振り返ってみて」
https://note.com/kamachu/n/n25324ae0021b
「大学1年生編」
https://note.com/kamachu/n/n7722fe84b2fc
「大学2年生編」
https://note.com/kamachu/n/n40cc44c7958b
「大学3年生編」
https://note.com/kamachu/n/n14ca377b35b7
「大学4年生編」
https://note.com/kamachu/n/n216bf056590d
「帰国後編」
https://note.com/kamachu/n/n223be8770257

こんな感じです。

ではまた次のnoteで。

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