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どんな言葉がいいだろう?

ちょっと前、Twitterの友だちで「5月のカレンダーを見せよう」キャンペーンがあって撮った写真。レオ・レオニの「じぶんだけの いろ」 です。

日本人の多くが「民主主義」に抵抗感をもってるんだろうな、と思う。

以前、とある集まりで
「なぜ民主主義が必要なのか、戦争がダメなのか。そんなところから説明したくはない、そこまで無知識・無関心な人たちを相手にしたくはない」
と言われたことがある。

気持ちはわかるけど、だからこの手の活動は広がりをもてないんだろうなと思った。世界にむかってひらいていない、閉じている。

『遅いインターネット』(宇野常寛、2020)では、民主主義の価値について
「一票で世界が変わると信じられた」
「誰にでも世界に素手で触れられる実感を与えてくれるものだった」
と定義している。いずれも過去形。

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ヒト・モノ・カネ特に経済がグローバル化したことはみんな認識していると思うけど、それはつまり「政治がローカル化した」ということでもあるんだよね。

つまり、
「インターナショナルな政治とローカルな経済」だった20世紀から
「グローバル経済とローカルな政治」へ、21世紀は逆転した。

テクノロジーを駆使したグローバル経済のプレーヤーにとって、民主主義のような古いシステムは必要ない。

確かに、「国(政治)に期待していない」という人々は、私のまわりにもいる。グローバル、とまではいかなくても、ローカルであっても、力のあるビジネスをしている人に多い。

「現代で民主主義にコミットする動機があるのは、より排外的でナショナリスティックな人々だけになってしまっている」と本には書いてある。
限られた人だけにしか訴求しない民主主義はポピュリズムの温床となり、トランプや安倍の言葉が真実だからではなく、「彼らが語る嘘が魅力的だから」票が集まる、と。
 
この言説は一考の価値があると思う。
 

 
でも、そもそも
「世界に素手で触れたい」と願う日本人がどれくらいいるのかな。

私はそこそこの歴史オタクなんですが、知れば知るほど、考えれば考えるほど、戦時中と戦後で、日本人のマインドはほとんど変わってないと思えてならない。

戦争が終わるまで、もちろん日本に民主主義はなかった。
庶民から、いや知識層からも「民主主義が必要だ」なんて声はほとんど上がってないうちに、与えられた。
一部のエリート以外にとっては、戦争をしなくてすむのはありがたいから、民主主義はいいものだと思った人も多いだろう。
逆にいえば、戦争をしなくてすむ(自分が戦争被害を受けずに済む)システムなら、あるていど何でもいいのかもしんない。
 

集団的自衛権の行使を謳う安保法案が出されたとき、
大学生たちのSEALDsを始め、デモをする人々はさかんに
「民主主義ってなんだ」
とコールしていた。

私は彼らが行動を起こしたことを尊敬しているけど、
あのコールを見たとき、多くの人々の胸に直感的に起こった思いは
「イタい」
「こわい」
「めんどくさい」
だったんじゃなかろーか。
 
民主主義。ということは、
私たちひとりひとり
みずからが選択の主体であり、
自由な選択には責任が伴う。

そんなの困る、というのが多くの人の本音なんだと思う。

多くの人にとって、
世界とは「一票を投じて変えるべきもの」なんかではなく、
世界とは職場であり、顧客であり、ママ友であり、SNSの友だちであり‥‥
つまり世界は「ムラ」なんだよね。
そこで白眼視され孤立してしまう怖さたるや。
そういう感覚は、もちろん私にもあるからね。
 
「民主主義が破壊されている」
「民主主義を守らなければ」
と、左サイドの人は割とかんたんに言葉にするけれど(私もそうだった)
その言葉を発するたびに、
むしろ
「ビクッ」「コワッ」「オエッ」 と思われていることを自覚したい。
 
どんなに正しい概念でも、
懸命で誠実でも、
心に届く言葉を使わなきゃ意味がない。
まして、忌避されてる言葉を使ってしまえば逆効果だ。

広告屋みたいにキャッチーな言葉で大衆を扇動すべしと言っているのではない。
 
言葉を人に届けたいと思うなら、
言葉と世界とを照らし合わせて、
どんな言葉を用いて伝えるか、真剣に考えなきゃいけないと思うのだ。
 
それが、著者の宇野によれば
「インターネットを <遅く> 使う」
ということになるんだろうけど。
 

思うに、「民主主義」という言葉に対して日本人が感じるイメージとして「責任を伴う」ことが意外に強いんじゃないかな。
責任、は怖いのだ。

・為政者は責任をとらなくてもいい
・一般人は何もかも「自己責任」と断罪される
という世の中になっているので‥‥。

だから、
何かを手づくりするとか、エールを送るとか、もっと進めばボランティアやクラウドファンディングに協力するとか、そういうことには、おしなべてみんな積極的・協力的なんだよね。
責任をとらなくていいから。
 
「何かを求める」
「主張する」
と、責任が発生する感があって、とたんに忌避感が生まれるんだと思う。
「いいね」すら押したくないくらいの忌避ね(笑)
 
もちろん、自分の手元での創意工夫や、エールや、ボランティアや互助は大事だ。
ただ、それだけでいいのか?と私は思ってる。
それを、民主主義につなげたい。
あ、「民主主義」って言葉じゃダメなのよね(笑)
 
◆ 
 
「民主主義」 
に代わって、そういうことを伝える言葉をもちたいのだけど、私もまだ見つけられない。
 
「自己責任じゃないよ」
「手をつないで一歩」
 とかかなぁ。。。
 
 
「ママじゃない私、ポートレート」では、
堂々とするのは、本当は気持ちいい」というコンセプトを持っていた。
これは、特に女性には、機会があれば伝えていること。


【追記】 当該記事に対して、Facebook投稿では、APU(アジア太平洋立命館大学)の出口治明学長からコメントをいただき、

・『チョンキンマンションのボスは知っている』(小川さやか)
・『神の亡霊』(小坂井敏晶) 

の2冊をおすすめいただきました!

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