カンバセーション・ピース
鳥羽和久さん講座、BTSを通じて考える『「推し」の文化論』感想メモ
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鳥羽和久さん講座、BTSを通じて考える『「推し」の文化論』感想メモ

カンバセーション・ピース

2022.3.14
奇しくもBTSのソウルコンサート3daysが終わった翌日にオンラインで開講された『「推し」の文化論』を受講した直後に綴ったツイートにちょっと手を入れたものです。

講師は(株)寺子屋ネット福岡の代表、『おやときどきこども』等の著者でもある鳥羽和久さん。

鳥羽和久 KAZUHISA TOBAさん (@tobatoppers) / Twitter


(以下、乱筆ですが備忘も兼ねてざっとメモです)
(厳密には鳥羽さんの意図を理解しきれていない部分があるかもしれません。すみません)

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社会の格差や抑圧、 実在の弾圧事件についてすら歌うBTSだが、それは「政治にコミットしている」のとはちょっと違って、彼らが「生きることは傷つくことであり、傷のあるところには政治がある」というベースに立っているということでは? という鳥羽さんの解釈、すごいわかる。

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鳥羽さんのまとめ
「すべてのものを商品化する資本主義社会だからこそ、BTSの人間性や「誰も傷つかない世界」に皆が惹かれ、結果的にそれすら商品になっている」

「けれど本来「誰も傷つかない世界」なんてディストピアで、人と人が理解し合おうと思ったら傷つかずにはいられない。彼らは自分たちがそんなグレーゾーンにいることを自覚しているのではないか」

私は、彼らは傷だらけにならざるを得ない厳しい世界にいるから、互いにケアし合う「優しい世界」を作ったんだろうと思っていたけど、実は逆でもあるのかなと思った。

「優しい世界」はある意味欺瞞というか、「ディストピアを作らざるを得ない社会、そこにいる自分たち」のという自覚や問題意識があって、そのうえで人間らしい生への渇望が「痛みをもってこい、戦うんだ」という叫びにつながっているのかもしれない。本来、相互理解のため、良き人生のために傷つけ合いながらでも生きる力をもっている、それが人間なのだと。

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國分功一郎の名著「暇と退屈の倫理学」にある浪費と消費の違いをBTS論に用いてあって目からウロコ。

時々やっちゃう食べすぎや使い過ぎは「浪費」であり、人間らしい行為だと。そうすることでお腹いっぱいになってしばし満足する。いわゆる、「祭り」「ハレの日」的ということかなと思う。

他方、情報に踊らされ他人の目を気にして行う「消費」は満足がなく、終わりがない。たとえば、SNSで「いいね」されるためにファッショナブルな場所に行くとか。

BTSの曲でいえば、「背筋ブレーカー」で彼らがdisっている若者たちは「消費」であり、「GoGo」の「楽しんで使い果たしちゃえ」は「浪費」だと。

ここにもバンタンの人間らしさ、人間であろうとする態度が表れてるんだなーと。

『暇と退屈‥‥』本では、「資本主義に包摂されないためには人間らしい感性や本能を取り戻すことがスタートだ」と書いてある(と解釈している)んだけど、それを体現してるから私は彼らを好きなんだなと思った。

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私が國分功一郎のいわゆる「退屈は大事」論を読んだのは2014年ごろ。

そのとき思い出したのは、'90年代前半のスチャダラパーの「ヒマの過ごし方」だった。隠れた名曲。

「ヒマを受け容れることができなくなりつつあるなら 
 それは能力の減退だ」
「人の数だけヒマはあるのだ それは当たり前のことなのだ」

当時のスチャダラパーは「オモロラップ」なんて言われて、哲学的な内容を「オモロい」でくるんで歌ってた。ヒップホップはもともと「怒り」を表現するものだと思うけど、日本のラップは(少なくともメジャーシーンでは)このあとも世界とは違う道のりを歩んできたと思う。

2013年、ヒップホップをベースとして韓国でデビューしたBTSは一貫して「戦う」を指向。

「戦う」とか「怒り」「批判」が、出る杭になる・揚げ足をとってる・意識高い的に忌避されがちなここ日本でも、BTSの「戦い」は私たちが人間らしくあるための戦いなんだなということが感覚的にわかるから、こんなに聴かれている気がする。

人間らしくあるための戦いだから、裏側には、お互いにケアし合う優しい世界もある。傷ついて斃れてしまわないように。
浅田彰もいってたように、BTSはアンビバレントな世界観が魅力で、それは一見矛盾しているようだけど表裏一体で、つながってるんだなーとあらためて思いました。

(↑ 4年以上前に書いた感想)

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一方、じゃあ私たち。

BTS公認のもと「彼らを利用して自分を愛する・世界とつながる」ことをやってる私たちの推し活は、「浪費」なのか「消費」なのか? 
3日間の公演が終わって虚脱している今は、とりあえず満足してる気もする。だから、これは「浪費」?
 
でも、次々に「供給」を欲しがる心理は「消費」に似てる。
同じ動画を何度も「擦って」、彼らのちょっとした動作や発言に自分の解釈を混ぜて、それで美化したり、がっかりしたり。

そもそも、彼らの人間性を愛し、人間らしくあろうとするスタンスを愛していても、私たちはそれを資本主義のフォーマットに乗っかったあり方で享受してる。
それがファンにできる「愛の表現」。
お金を使い、SNSで拡散する。そこには必ず矛盾?というか、歪み?がある。

私たちは推しを「利用」してる。
そこには必ず「消費」がひそんでいる。
いつでもポイ捨てできるし、SNSでのdisが束になれば炎上させて傷つけることができる。

バンタンを見てると、それも必然として受け容れているのかなと思う。
もちろん、傷ついて悲しんでいるとは思うけど。

彼らもまた、自分たちが資本主義のレールに乗っかって、ファンの愛をお金に換えていること、それを純粋な愛やつながりといっていいのか、何かしらの歪みがあることを自覚しているだろう。賢い人たちだから。

鳥羽さん
「バンタンはいつも、”ここは海のようでも元は砂漠だった”と意識している人たち。今でも波打ち際に立っていると自覚しているのでは。私たちもそうなのでは?」

(↑ ちょっと違うニュアンスだったかも‥‥)

*
推しとファンを媒介するのは「資本主義」。
それを全肯定も、全否定もできないなと思う気持ちがある。

バンタンは(無意識にでも)「人間らしく生きるための戦い」を指向している人たちで、だから私は彼らを好きになったんだと思う、
だったら、彼らを消費している部分がある自覚を持ち、
人間として扱うように心する。
自分の人間性が「推し活」に潰されないようにもする。

それが、RMが年末のインタビューで言っていた「ARMYとはお互いを応援し合いながら、今の距離を維持していく、平行線のような愛の関係でありたい」みたいな話なのかなと思い出したりもしました。

追記。

最近のARMYファンダムでは、特にコンサートの非公式写真や動画の拡散や保存の可否について議論がある。
会社は一応NGというスタンスだけど、まだ黙認している部分もあるのが現実。
ファンの態度はまちまち。私は、ある程度はOKなんじゃないかと感じてる。

非公式の動画や画像は、拡散も保存も、閲覧さえ一切NG、なぜなら推しの商売を邪魔するからというのは、この資本主義のフォーマットの全肯定であって、それはどこか彼らの在り方とフィットしない気がするのだ。
はみ出たり零れ落ちたり、人の不足や揺らぎに目を向けて肯定してきたのが彼らだし、もちろん非公式の動画や拡散に支えられて成長してきた彼らだから、
(例:マスタニム文化や翻訳アミ)
「今となっては公式と課金が絶対の正義で、その有無で線を引きます」ってなるかなあ?と思う。

BTSは、かっちり白黒つけるのではなく、物事の両サイドや、グレーであることをいつも包含しているグループのような気がする。

もちろん、全部を許すのとは全然違いますよ。悪質な商用は論外として、消費的に編集された非公式動画や、おびただしい数の個人のスマホ撮影がプライバシーを侵害し消費を促進して彼らを消耗させ傷つけている実態もあるだろうから、そういう観点では自重は必要だよねと思う。

私としては、そういう「揺らぎ」の上に立ってそのときどきの最善を選べるアミでありたいと思ってます。

(↓ ↓ 奇しくも、講座を受ける前日に書いた記事‥‥)


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