イソトピックな関係[科学×エッセイ]

私はこの3月に高校を卒業した。4月からは大学に入学する予定である。
つまり私は今、人生18年間で築き上げた人間関係が激動する地点にいる。

私は公立の学校の、特に目立ちもしない男子高校生だった。
殊更高校が近所というわけではないけれども、小中高で家の場所が変わったわけではなかったから、休みの日に中学校の友達と遊ぶなんてことがよくあった。
あるいは通学の電車で旧友とばったり会ったりして話し込むこともあった。

この3月に入るまでは、私や私の友人たちは、府内の「○○高校の人」「△○高校の人」みたいな僅か数個のタグで分類することができた。
それが大学の入試が終わり、前期試験の発表がされると、私たちは地域の束縛を逃れて蜘蛛の子を散らすように各地へ発っていく。
私は県境を跨ぎ、18年間過ごした地から離れる。
(最も、私は大阪から京都へ移動したのだから、跨いだのは府境なのだが)

物理的な距離だけではない。数個のタグで分類できた人間関係は、今や「○○大学の人」だけではなく、「浪人生」「社会人」みたいな、多様な広がりを持っている。
秩序だった関係が、シンプルだった関係が時間の進展に伴って複雑化する。


まるで相転移を見ているようだ、と理系頭の私には思えてしまう。

相転移というのは物質の物理的な状態が変わることである。例えば水分子は個体の氷から液体、気体の水蒸気のような異なる状態をとる。これも相の一種である。

秩序的で狭いところに集まっていた、高校時代までの私たちは氷である。
時間の経過とともに温められた氷では、結晶を作っていた水分子が熱エネルギーを得てあちこちへ飛び出していく。やがて水から水蒸気になると、水分子同士に働く電気的な引力なんて無視できるほどのエネルギーで拡散してゆく。再び集まってくるなんて気配もなく――――
初めの文を言い換えよう。私は今、人間関係の相転移を見ているのだ。


私の思いとは裏腹に、時間は無惨にも人間関係を変形させていく。
無常は無情だとかいうしょうもないことを考えつつも、頭の別の部分では今までの思い出の人の顔が次から次へと流れていく。
伝えたい人に伝えたかったことの9割方は伝えられないままだ。

気体になった水分子が、氷のときに手を繋いでいた水分子と再び出会う確率はどのくらいだろうか。大きめのノートと鉛筆とを手にとって、それから数式を書こうとして、すぐに手を止める。
分母が分子に対して天文学的に大きくなるのが目に見えている。



位相幾何学という、数学の分野がある。幾何って言葉からもわかるように、ものの形を扱う学問である。
図形が変形するときに、同相写像が存在するような変形をイソトピー変形という。同相写像が存在する変形というのは、各点が連続的に一対一で対応している変形ということである。
簡単に言うならば、図形に空いた穴の数などの図形の性質を崩さないような変形ということだ。

私たちの人間関係の変形が、止めることができないものならば。

せめてその変形はイソトピー変形であってほしい。

本質の変化しない人間関係を願う。

イソトピックな人間関係を願う。

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