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古民家に住んでいる話 15

13と同様今回もサロン回となる。2度の来客イベントと俺が来客となった時の3件についてざっくり書く。ざっくりだが長い。


先ずは9/16の昼頃、西君(Twitter:mementomori_rm)が訪れた。その日家にいたのは俺とヒカルの2人だけだったが、専ら俺と西君の1対1での会話が主だった。

西君は今年から美大に入った20歳の男で、昔からTwitterで秘封を初めとした複数ジャンルでの絵描き仲間だった。俺が線画で1枚に長時間をかけるタイプなら、西君は塗りから入る速筆多産タイプの絵描きである。つまり技法の面ではあまり被らないのだが、ジャンルが同じであったりお互いまともに成長していたりする点から長く付き合い続けている。尤も西君が予備校と美大で練習しまくっている頃、即ちここ1年間程度は俺は(元々少なかった)絵を描く頻度が著しく落ちていた為最近はあまり接点も無かったのだが。一応理由を述べておくと、卒論に始まり引越しと家の内装に意識と時間を費していた為絵に限らず1年間創作がかなり減っていた。イベントを基準に原稿作業をする為イベントが減るとそれに向けた作業もしなくなる、という要因も大きい。・・・・・・以前何れかの記事で似たような事書いたな。

さて、この日の論題は専ら芸術に関するものだった。ここ1年間で西君は以前より一層現代芸術に傾倒し、絵や空間芸術に限らず映画を観まくっていたようで映画の話もかなり多かった。あまりに多くの映画を挙げられるのでついていくのが難しい。

お互いに幾つか重要な気付きがあった。例えば俺の持論として、詩・書・画・彫刻等現在芸術として扱われるものは何れも最初から芸術であった訳ではなく、宗教・政治→大衆化→芸術化という三段階を踏むというものがある。今書いている小説のテーマとなる為詳述はしないが、この話をした時西君は「絵は単純な芸術としてではなくとっくに哲学の域に達している」旨の事を言った。なるほど19世紀に開花した写真の存在により絵画の写実性の意義が致命的に問われるようになったのは周知の事実だ。であるが故に若かりし頃絵画において神童だったピカソ(ピカソが14歳の頃描いた絵を知らなければググってみるといい。彼への見方が完全に変わるだろう)がブラックらと共にキュビスムと呼ばれる手法に傾向していったのだ、と素人ながらに認識している。そして現代芸術は、作家がその心象世界に内包する漠然たる思想や感覚を作品として表すべく最早二次元の絵には拘っていない、と言う。三次元を二次元に落とし込む事はこれまでの絵画が扱ってきた領域だが、現代芸術が扱う四次元を1つ飛ばして二次元に落とし込む事は不可能である為三次元に落とし込まんと挑戦し続けているらしい。故に空間芸術が多くなる、という事だと俺は理解した。実際はもっと複雑なのだろうが、現代芸術に疎い俺の理解である旨了解して頂きたい。重ねて言うが素人認識だ。

理解できない訳だ。漠然としたイメージを漠然としたまま伝えようとしており、その表し方に理屈はあっても表すべきものには言葉を要さない。その一点に関しては文学と酷似するが、扱うものが美や感情に限られていない。四次元ときたか。うーむ。初めからある抽象概念を具体に落とし込む現代芸術に対し、俺は知識や日常経験という具体例から法則を見出す思考法をしている。方向が真逆なのだな。

等という話を聞き、持論を補強しながらも俺は東洋の思想と芸術を語る。欧米が先行する現代芸術に傾倒し絵の描き方としても面で描くスタイルを取る西君に対し、東洋思想に染まり絵も線で描く俺は正反対に位置すると言って良い。

あまりにざっくりとした言い方だが、東洋と西洋では手法や思想に決定的な違いが幾つかある。例えば哲学。西洋哲学は確実にそうだと言える事の積み重ねと演繹によって真理を探求するのに対し、東洋哲学は最初に真理に到達した者がおり、その模倣や彼の言葉・思想の研究・追随である。言わずもがなゴータマ・シッダールタである。また医学も決定的に異なる。薬で見れば西洋医学は万人にある程度効きそうな薬や治療法を少しずつ積み重ねていくのに対し、東洋医学、というより漢方は一人一人の気質に合ったものを処方する。それは気の概念を前提とし、治療法にしても西洋では物理的な手術を主とするのに対し東洋では患者が元々持っている治癒能力を充分発揮できる状態を目指す。その上で道教に由来するスタイルでは内丹と外丹に分類され、薬を用いるものすら外丹、即ち物理的なものと解釈し、道(タオ)を内包する人間の気を扱おうというのが内丹となる。また西洋の彫刻類が足し算的だとすれば、東洋の彫刻即ち仏像は木の中に仏性を見出し、仏以外のものを削っていく引き算的作業である。

今思ったが、格闘技も異なる。西洋の、特に近現代の格闘技は何より先に身体を作り上げる。デカい男がその体を如何に使うかという方向になっており、人体の効率的な破壊を目指す。力こそパワー、ゴリ押しで勝てるならそれが一番である。ボクシングや総合格闘技が良い例だ。対して東洋の格闘技はそこまで徹底的にムキムキになる必要はなく、力のベクトルの操作により最低限の力で相手を制する方向に向く。理合である。またメンタル・フィジカル共に万全に整えられた状況で行われるスポーツとしての西洋格闘技と異なり、精神性が重視され、着の身着のまま日常と武の合一を図る。独自の理論を持つのも特徴で、合気道がその極地、ある種の例外が空手であろう。詩書画もそうだが心技体とは重要な要素の順番になっている。ただし格闘技に限らず東洋のスタイルは極めればバケモノになるが途上段階で比べると西洋の合理性には勝てない(中国でムキムキの総合格闘家が拳法の「達人」をボコして物議を醸した例があったな)。俺はゴリ押しが好きなので空手派だ。

・・・・・・と言った具合に、俺がバックボーンとする東洋思想は西洋の手法とは決定的に異なる。古いものが良いものとする考え方も強い。そんな話を聞いて西君も面白がっていた。そう言えば日本の近代文学が行ってきた、直接語らず言葉の印象だけで文中にハッキリとは書かれていないものを読者に感じさせる手法についても語ったが、これについてはかなり興味深そうに聞いていた。


そう、そうなのだ。彼とはいつも分野が同じでスタイルが違う。途中式が全く異なるのに答えがしばしば同じだから楽しくやっていける。答えが違う場合でも分野の被りによって常に新鮮だ。そしてお互いに勝手に研鑽や思索を続けるので、久々に会うと新鮮な知識や考えを持ち出せる。こういう相手なのだ、俺が欲しいのは。彼もTwitter上で知り合ってここまで長く付き合いが続く絵描きは珍しいと言っていたが、大抵は途中で辞めてしまうか成長が遅くて付いてゆけなくなるのが理由だと解釈していた。西君、化学魔さん、上野、後述のれーじ等(風兎氏は些か趣を別とする友人枠に入る)、俺の友人は皆俺が求めるまでもなく―――恐らくは苦痛的努力ともせず、気付けば勝手に新たなものを得ている。分野は問わない、歩み続けるからこそ友人でいられる。使い古された言葉だが、現状維持とは退化でしかないのだ。昔取った杵柄に拘泥している様では人間終わりだ。

こうして一通り語れるものを惜しみなく語り、満足して西君は帰っていった。この手の対談は1対1に限るな。禅問答と評していたが、中々どうして。


似たような事が先日あった。俺が新宿でのオフ会後化学魔宅を訪れた時の事だ。東洋と西洋の違いについてはこの時語り明かした為西君との対話で思うまま持ち出せたという経緯がある。

化学魔さんについて改めて語ると、高学歴高IQのキリスト教徒である(俺はふざけてきりしたんと呼んでいる)。理学畑の人間であり、文系と芸術系にしか振っていない俺とは学問的には被る部分がかなり少ない。化学、気象、物理、数学、法律等。共に小説を書いているという共通点から、宗教と創作という2つの議題が主だった。西君との話題が創作・芸術論であったのと比べるとこちらは宗教問答の割合が大きい。美についても語った。

不思議な会話だった。キリスト教ではこう。なるほど、仏教ではこう。ふむふむ、でキリスト教では・・・・・・と、会話がキャッチボールらしからぬものになった。野球の変化球に対しバスケのバウンドパスを返すような奇妙な応酬で、そこに共感は必要なかった。

大抵の凡夫の会話というものは、自覚の有無に関わらず目的が共感である事が殆どだ。本人達は否定するだろうが、会話においてポジションは敵と味方の何れかしかない。所謂理系の会話というものは少し異なり、論理性や客観的正しさに欠けるものはどんどん指摘し、指摘された側はそれを有り難がりさえする。その手法に慣れていない人間にとっては意見への指摘はその意見を発した人間への攻撃に他ならず、気分を害する事が多い。否、俺もあまり慣れていない為理屈ではわかっていてもいざ指摘されるとあまり良い気がしないのは認めざるを得ない。

この時の化学魔さんとの会話はどちらとも違った。質問と返答は多くあったが、論理的な指摘や意見の対立といったものは全く無かった。それでいて共感も全く無いのに、過去最大級に有益な会話だったと断言できる。指摘も共感も恐らくは必要なかったのだろう。一見するとお互いにお互いの話を聞かず持論を展開し続けているだけのように思えるかも知れなかったが、お互い相手の発言をかなり吸収していたのは確かだ。俺も化学魔さんも斯様な会話は生まれて初めてのもので、この奇妙な会話にはそれを指す為の別の命名が必要な気がする。

ひたすら語り明かし、気付けば朝だった。幾つか気付いた事があったが、その内の一つが「宗教論争に中立なし」だった。化学魔さんはよりハッキリときりしたん(プロテスタントだが)となり、俺も自分が思っていた以上に東洋思想に染まっていたようだ。自分が普段意識していない領域でも、その宗派の思想が自分の口をついて出る以上自分の言葉となってしまう。話す内に自分を洗脳するような形になるらしい。そして俺はこれまで以上に東洋スタイルで生きていこうと思うに至った。化学魔さんもこれまで得ていた真・善に加え再現可能性の無い美というものを知ったようだった。相性が悪そうだ。

一つ断っておくが、俺は神仏を信仰している訳ではない。心霊の存在も認めていないし、気という概念を文字通り受け取る事はできない。というスタイルのままで尚東洋思想を如何に吸収していくかという方針が定まった。ここでは詳述はしないがね。


西君が訪れた2日後の9/18から3日間程大型来客があった。タイミングはズレながらも化学魔さん、風兎氏、上野、れーじの4人がゾ邸に訪れた。この時の目的は化学魔さんとれーじを会わせる事で、今現在法律を勉強している化学魔さんと中央大法学部のれーじなら何かしらシンパシーがあるだろうと思っていたのだが、思っていた以上に扱う分野が似通っていたらしく、最終的には2人がlineを交換し今度一緒に勉強しようぜという話になるまでに至った。上野も法律はある程度いけるようだが、上野が扱う範囲は国際法、化学魔さんが扱うのは民法(でいいのか?)だった為あまりピンポイントで合致しているわけではなかったので、まあ良い法学仲間が出来てくれたのだろう。因みに会話の内容に関しては俺がサッパリ疎い為ここには書けない。

れーじは高校の空手部で知り合い今は法学部の人間だが、それを別として読書趣味により会う度違う本の話を持ってくる。以前の事だが唐突にバガヴァッド・ギーターの話をし始めたのには驚いた。この回では俺とれーじ、俺と化学魔さんとで個別に話したテーマについてのざっくりしたすり合わせが行われた。

上野は何故かニコ動のぴよぴーよ速報を見せ始め、全員で爆笑していた。後から来た風兎氏はこれは履修済みだった。この辺は流石と言いたい。

上野とれーじは2日目に帰り、3日目は2日目にやってきた風兎氏と化学魔さんにヒトケン氏を加え房総半島を軽くドライブしたが、これについてはあまり語るべき事は無い。2日目夜のクイズ大会は楽しかった。因みにこの記事のサムネはドライブ中に見つけたもの寂しい祠である。


この回での俺の最大の収穫は風兎氏が持ってきた『xxxHOLiC』全巻だった。19+4巻、風兎氏が泊まっている間に全巻読めというもので、俺はひたすら読み明かしていた(が故に他メンツの会話内容には深く触れていない)。風兎氏が滞在を1泊伸ばしてようやく読了したのだが、いや、かなり良い出会いだった。

元々xxxHOLiCは扱う内容からしても絵柄の好みからしても俺が読んでいないのはおかしい、と何度も指摘されていた。俺もそれを自覚しつつもイマイチ読む機会を逃し続けていたのだが、結果的に今読むのが正解だった。どんな作品にもそれと出会うべき時期は決まっているものだが、xxxHOLiCは間違いなく今だった。古民家に住み、これまで以上に生活様式が和風スタイルになり、そして東洋思想について思索している今この時期がベストだった。大学生活を経てxxxHOLiCのオカルトや伝承ネタについては大半は序盤で何を扱っているかわかる程度の知識を蓄えた状態となり、蔵で面白いものを発見するような家に住み始め、そして先述の東洋思想にも関連する。過去に機会を逃したのは、侑子さんの言い方に合わせれば「必然」だったのだろう。まあ俺はあの店には入れないだろうがね。

4日目の朝に読み終え、やがて起きてきた風兎氏に感想を投げた後彼も帰っていった。例によって有益なオフ会だった。尚いつもの事ながら忘れ物があったが、今回の忘れ物はポケット六法だった。凄い忘れ物だな。


俺は俺で新たな思索テーマが固まり、友人らにも常に一定の新鮮さは与えられたように思う。東洋スタイルを歩む利点として、大抵の現代人がこの道にいないからこそ大半の人間に対し別口での解法を示せるというものがある。加えて創作志向や衒学、多趣味、変人であり続ける事等により一層希少性が増しているのだと思いたい。独特なやり方をしつつもそれなりにレベルが高い人間を目指していけば、深く関わるにせよ軽く付き合い続けるにせよ「友人として一人はこういう奴を置いておくと面白い」ぐらいには思わせられる。尊敬の念は無くてよい、興味深く思ってくれればそれが好ましい。・・・・・・過去、俺を疎ましく思った人間は大抵そいつ自身がつまらなく、興味深く見ていた人間は面白い人間が多かったという話を友人から聞いたが、これは大変都合が良い。俺を見下すって事は・・・・・・と悪用してもよいし、そうでなくとも面白い人間ばかりが集まってくる事にもなる。この道を行きたい。

然らば。

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