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母の日に思う。不器用で、ぎこちない母の労苦に感謝。

今日は母の日ということで、
半世紀以上前に自分をこの世に誕生させてくれた
母(おかん)への感謝を綴りたい。

自分が生まれたのは、大阪府N市の飯場
父(おとん)は建設作業員。おかんは現場の飯炊き。
荒くれが集まるガサツな環境で
どうやらその一間が生活空間だったようだ。

記憶に残っているのは、
飯場の土工仲間の子どもらとともに
建設現場の片隅で、はしゃぎまわっていた情景。

線路に侵入し、砂利石を置いてはしゃいでいたことも覚えている。
特急電車が近づいてきているのに気が付かず、
ぎりぎりのところでかわし、せまい山肌にくっついて、
轟音を立てて列車が目の前を行き過ぎるのを待ち、

通り過ぎたところ、安心して、線路から離れたところに、
鬼の形相でおかんが走ってきた。
手に持っていた竹製のふとん叩きで、しばかれた。

振り返れば、子どもの頃、よくしばかれた。
本当にお灸を据えられたこともある。
熱さ、恐怖に耐えかね、大声を出し、暴れるのを
おとんに抑えられて、据えられた。
とても熱かった。泣き叫んだ。

現代であれば、確実に虐待に当てはまる。
なぜ暴力を振るわれてまで叱られたのか
置き石以外の理由はまったく覚えていないけど、
暴力を振るわれたことは、しっかり記憶している。
これが虐待がダメなことの理由だと体験から理解している。
これはひとつの財産。

本当に、恨みつらみは無い。
ケースワーカーとして、マイナスではあるが財産になっている。

そんな不適切な養育を受けたことよりも

離婚して、私たち3人兄弟を引き取り、
生活保護を受けながら、育ててくれた恩と感謝の方が遥かに印象に残っている。

おかん一人で男3人を育てる
この生活は苦しかったのだろう。
食費に困って、夕食は袋ラーメンで済ませたり
どんぶりを持たされて、一杯だけのご飯を買いにお使いに行かされたり

冷蔵庫を買えなくて、しばらくはその日暮らしを続けたこと

文化住宅の6畳の間に、家族4人3枚の布団で寝て過ごしていたこと

書き連ねれば、昭和50年代とは思えない
貧乏の極み。
惨めで哀れに映るかもしれない。

が、何にも、苦にならなかった。
楽しかった。今でも、懐かしく感じる
美しい思い出だ。

しかし、根本的におかんは不器用。
愛情表現が特に、不器用。

なぜなら、その生涯は複雑だから。

今は失踪し、消息不明のおとんから、
おかんに内密にして、聞いたことがある

実は異父兄が存在する。
実は姉が産まれていたはずだったが、産むのを断念した。
そして、おかんの母親は
突然蒸発してしまったこと

こんな衝撃的なこのことを、自分が30歳の時に知ってしまった。

おかんには感謝を捧げるべきおかんが居ない
その人が、どこで何をしているのか全くわからない
いや、それどころか
感謝なんて論外

だろう

おかんは自分が母から愛情を受けずに育った。
その人の子育てが、不器用になるのは、暴力的になってしまうことは
充分あり得てしまう。

良くはないけれど
不器用なのだから、仕方がない。

恨みはない

まさに、一生懸命に、
僕らを生かしてくれたから。

感謝している。

そして本日、果物好きのおかんに
手土産を持って会いにいってきた。

痩せてるかな
元気かな、と思っていた

・・・が、太って元気に。
膝が痛いって言ってたので、
チェアー式の座椅子を以前にプレゼントしていたのだけれど、
今はオブジェになっていた。
なぜか年齢を重ねるごとに、元気になっているように見える

おかんいわく

なんでも食べれてるで

と快活に、毎食、上手に節約しながら料理をしているとのこと。
暇なときは、ラジオやテレビを見たり
お友達と仲良く散歩しているとのこと

タフなおかん

ありがとう。
恩返し、できるよう
頑張るわ。

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