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子供たちの成績表

いつも記事を読んでくださりありがとうございます。

さて、昨日は小学校の終業式、そう今日から夏休みに入ります。
終業式のイベント、それは成績表がもらえる日。
私の子供たちの学校では「あゆみ」という成績表で◎、〇、空欄で各科目が評価されているタイプ。
私が小学校時代もそんな感じだったなあ。
30年くらい変わっていないんだね、評価制度。

小学3年生の娘と2年生の息子、3学期の成績表、娘は体育と音楽は◎ばかりだが、国語に空欄があった前回。
この成績というのは相対評価ではなく絶対評価なので、基本的には◎、ちょっと頑張ってねという項目には〇、結構やばいよというのが空欄だと認識。
私はその成績表でとやかく言ったことはないが、3学期の成績表を見た祖母が「これ以上空欄が増えたら塾にいかないといけない」と娘に言ったこともあり、娘は成績表をかなり気にしていた。

「あゆみ大丈夫かなあ、空欄2個あったら塾なのパパ?」
「頑張ったならばいいんじゃない?」
「でもおばあちゃんが塾って言ってたからなあ、1個だったらセーフ?」
「うーん、分からないけどなんか頑張ったことはあるの?」
「3年生になってから頑張って手を挙げるようにした、間違うことが多いけどね。」

ん?これって物凄く凄い事なのではないか。
分かったから手を挙げる、そして正解する、褒められる、嬉しくなる、だからまた手を挙げる、これが行動変容のルールだと思っている。

娘が言った
「手を挙げるようにした、間違うことが多いけど」
これってなかなか出来ることじゃなくないか?
間違ったら恥ずかしい、分からないと手を挙げたくなくなる、私ならばそういう思考になる。

自分の意見に自信がある時、周囲が納得してくれそうな時、手を挙げて意見を言うがそうでないときは心の中で意見があっても手を挙げない。
意見を求められたら発言するが、それで間違ったり周囲から白い目で見られても「だから手を挙げていなかったじゃん、私は当てられたから言っただけで悪くない」という言い訳を心の中でいい、自分を正当化する。
その正当化の結果、正解が分かるまで手を挙げないという自分の行動が定着していく。

娘はどうだろう、正解不正解は関係なく、とりあえず手を挙げるという行動をしているっぽい。
娘よ、父は小さい頃は出来ていなかったし、今もとりあえず手を挙げるから始める行動は出来ていないぞ。
娘は凄いと思うが、そういう空気感を作り上げている先生が凄いのだろう。
たぶん、間違った発言をしても間違ったと思わせないファシリテーション、むしろ正解不正解よりも発言の価値の方が高いという導き方をしているのだろう。

潜在的に娘がそういう性格だったという事ではないと思う。
環境が行動を変えていく、2年生の頃は出来なかった行動が3年生では変わっている、先生の存在は非常に大きいのだと再認識。

娘が帰ってきた。
「パパーあゆみ見て!」
成績表を開く、空欄は一つもなかった。◎と〇が半々くらい。
「これで塾行かなくていいね!」

成績表の結果ではなく、娘の行動が変わっているのが嬉しい私。
先生、ありがとう。

隣で息子がいた。
ちょっと機嫌が悪そう。
「あゆみを見せて?」
「いいけどあっちで見て」
あゆみを開く。
18項目中16項目◎。彼は1年生の時からほとんど◎だった

「競争すると(娘が)怒るから」
大人な2年生である。
彼も成長しているね。

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