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逍遙遊 2|カオスな世界を悠々自適に生きる

2400年前、楚の威王の招聘を固辞して草鞋作りで生計を立て極貧生活の中で思索を続けながらその生涯を終えた荘子は、あえて貧困の生活を選び悠々自適の自由人として生きた。

荘子は老子よりも世俗を超越した超世俗的で宗教的な思索を続けました。

人間とは、生死とは、宇宙とは、他の哲学の巨人たちと同じように荘子もまた人間の意識の不思議を思索しました。是と非、善と悪、美と醜、生と死、人間の苦悩は意識が作り出した相対的な対立の認識にすぎない。では、意識とは何ぞや、認識とはなんぞや、それは不可知なものである。

意識が不可知であり、認識が不可知であるということは、権力・地位・名誉・名声・貧富・不幸・幸福など人間の認識によって作られた価値の基準は全て不確かで無意味であるという不可知論を荘子は展開しました。

人間は、自ら勝手に分別した相対的な世界を超越して絶対的な無為自然の道に従い心の穢れを除き執着を捨て清く万事をあるがままに委ねて悠々自適に生きる。

荘子が説いた無為自然の生き方です。

荘子は、老荘が説いた道の体現者を「真人」と表現し、真人は絶対的自由の境地を会得し逍遙遊(物我一体の境地)の世界に生きる理想的人間像であると説きました。

真人は生に執着するでもなく死を忌避するでもない
この世に生を受けたからといって喜ぶでもなく
この世を去るからといって悲しむでもない
ただ無心に来て無心に去っていくのだ

逆境にも不満を抱かず 栄達を喜ぶでもなく
万事をあるがままにまかせて 作為をほどこそうとしない
失敗しても気に病まず 成功しても得意がらない

変転する外界の事象に自由に応じてゆくが
決して仲間をつくろうとしない
人に先んじようとはしないが 
かといって意識的に下風に立とうとするわけでもない

常に独自性を失わないが かたくなではない
顔色はいかにも晴々として屈託がなさそうだが
動作は常に控えめである

世俗と同調はしているが
それでいて世俗を高く超越している

(荘子大宗師編より)

悪政、詐欺、不平等、不節操、等々、投稿を見ると小百合さんたち若者の憤りが伝わってきます。すべての事象が混沌とした社会ですが、2400年前の混沌とした社会で生きた哲学者荘子の生き様も一つの人間の心のあり様のヒントになるのではないでしょうか。(笑)

エムケイコンサルティング 良仁