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【コンサル物語】シカゴ郊外エバンストンのノースウェスタン大学

1911年にミルウォーキーのシュリッツ社でコントローラー(経理部長、経営管理担当など)として働きながら、アーサー・アンダーセンはシカゴ郊外ノースウェスタン大学での講座も担当していました。

16歳で両親を亡くし孤児になったアンダーセン氏は、23歳でシカゴ最年少で会計士試験に合格すると、続けて同年ノースウェスタン大学に入学、大学では1911年(26歳)に助教授、1915年(30歳)に教授にまで登りつめました。

今回はアンダーセン氏の大学時代初期の歴史について、簡単ではありますが紐解いておきたいと思います。アメリカでは大学教授が専門分野を活かしてコンサルティングビジネスを行うことは珍しくなく、アンダーセン氏はその先駆けでした。

アンダーセン氏が学び、教えていたノースウェスタン大学は1851年に設立された名門私立大学です。

1853年、大学の創業に関わった人々はシカゴの北にあるミシガン湖の湖岸に379エーカー(約150万㎡ 約1.2km×1.2km)の土地を購入しキャンパスを設立した。また近くの土地を開発し、大学の創設者の1人であるジョン・エバンスにちなんで大学周辺の町をエバンストンと名付けた。

ノースウェスタン大学はたった2人の教員と10人の学生で授業を開始した。1900年頃までに、ノースウェスタン大学は、ハーバード大学とミシガン大学に次いで、米国で3番目に大きな大学に成長した。

1908年に設立された商学部(後のケロッグ経営大学院)は、夜間プログラムの授業から開始しており、21世紀には世界で最も古く、最も権威のあるビジネススクールの1つになっている。

『ノースウェスタン大学ホームページ』(https://www.northwestern.edu/about/history.html)『wikipedia』
など

創設者の1人であり大学周辺の町に名を残したジョン・エバンス(John Evans)

『ノースウェスタン大学ホームページ』より

アンダーセン氏が商学部で学び始めた頃のノースウェスタン大学(1907年)

『ノースウェスタン大学ホームページ』より

1908年に大学に設立された商学部(後のケロッグ経営大学院)で学び始めたアンダーセン氏は翌年に早くも大学で授業を持つようになりました。この頃はまだ会計士としてプライス・ウォーターハウスに在籍していた時期です。

そして、1912年にノースウェスタン大学の著名な会計学者で当時の会計学部長であったシーモア・ウォルトンが、自身の会計学校を設立するために辞職をしたため、大学側はアンダーセン氏に助教授兼会計学部長のポジションを準備しました。アンダーセン氏は大学からの招聘を受け入れ、27歳にしてその職につきました。

アンダーセン氏は翌年の1913年シカゴに自身の会計事務所を設立するわけですが、事務所設立後も暫くの間は大学教授と会計事務所の代表を兼任していました。詳細は次回以降の頁で書きたいと思いますが、兼任をしていたことは大学教授としてのアンダーセン氏の高い評価がアーサー・アンダーセン会計事務所への仕事の呼び水となるなど、非常に好ましい状況を生み出していたことは歴史上の事実です。

さて、今回の最後は大学がある町エバンストンの当時の歴史に触れておきたいと思います。

21世紀のエバンストンは閑静な住宅街とノースウェスタン大学の街という雰囲気をもっているようです。エバンストンの少し北(10kmも行かないぐらい)には、ウィネトカ等の超高級住宅街が広がっています。そう、有名なクリスマス映画「ホーム・アローン」ハウスがあるところです。

アンダーセンが大学にいた頃のエバンストンはどうだったのでしょうか。アメリカ人作家ドライサーの小説「シスター・キャリー」の中で、ちょうど主人公のキャリー(18歳の女の子)が隣人のヘイル夫人に誘われ、エバンストンに出かけて行くシーンがあります。小説の時代設定は19世紀末のエバンストンではありますが、当時の街の様子がよく分かります。

少し長いですが、アンダーセン氏がいた頃のノースウェスタン大学周辺エバンストンの街の空気を感じていただくため引用します。

 ヘイル夫人は、晴れた日の午後、陽射しを浴びながら馬車を走らせるのが大好きで、 自分には手の届かない邸宅や芝生を見てまわっては、心の慰めとしている。ノースサイドには、いまではノース・ショア・ドライブと呼ばれている道路に沿って、そのころからすでに、優雅な邸宅がたくさん立っていた。現在の湖岸の石造りの堤防は、当時はまだできていなかったが、道路はよく整備されているし、道路と家いえとを隔てる芝生は見た目に美しく、家屋はどれも真新しくて立派だった。(中略)
二人の乗った馬車はまずリンカン・パークを通り抜け、市街から遠くはずれたエブァンストン近くまで行ってから四時に折り返して、五時ごろにショア・ドライブの北端までやってきた。
(中略)
なめらかな舗装道路をドライブしていると、ときどき馬車がすれちがう。見ているとそのうちの一台が停まり、従僕が出てきてドアを開けると、午後に出かけた何かのお楽しみからのんびりと帰宅の途についたらしい紳士が降りてきた。そろそろ新緑に包まれはじめた広い芝生の向こうには、やわらかな照明に浮かび上がる家の内部がつぎつぎに見える。目に入るのは椅子だったり、テーブルだったり、部屋の飾りたてた一隅だったりだが、そういうものの魅力は、ほかの何物にも代えがたかった。子どものころ空想にふけった、おとぎ話に出てくる宮殿とか王宮とかが、いまさらながらによみがえってくる。目の前のたっぷり彫刻を施した門の向こう側には、ガラスやクリスタルの覆いをかけた明かりが、ステンドグラスなどのはまったパネルのドアを照らしている。ここには愁いもなければ、欲望がみたされぬままに終わることもないのだろうとキャリーは想像した。ここにこそ幸せがあると信じて疑わなかった。 あの広い歩道をのんびり歩いていって、宝石と同じくらい美しいと思えるあの豪奢な門をくぐり、品よく華やかに静しずとなかに入って、ものを所有し、人に指図できる身分におさまることができさえすれば――

『シスター・キャリー』ドライサー作 村山淳彦訳 岩波文庫

このようにエバンストンは、アンダーセン氏の時代にすでに裕福な街の様相を呈していました。

(参考資料)
『THE FIRST SIXTY YEARS 1913-1973』(ARTHUR ANDERSEN & CO.)など


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