明日香と信二3
西日が当たるオフィスの午後は、毎日まどろむような眠気に襲われる。
明日香は引っ付きそうな瞼を何度か大きく見開き睡魔を追い払った。
信二が退職した後、ここでの明日香の仕事量は確実に目減りしていた。楽しくも辛くもない会社で時間を潰しに来るような毎日だったが、自分から辞める気など毛頭なかった。
元々社内に友人と呼べるよう人間などいなかったが、信二が去ってからは明日香に話しかけてくる人間は殆どいなくなった。
明日香はそれについて寂しさや疎外感などという感情は湧かず、会社は仕事をする為の場所であって、それ以外の目的などないのだと常々思っていた事もあり、いっそやり易さすら覚えていた。
意固地になっていると言われればそれまでだが、今はきちんと仕事を続けることが明日香にとって規律正しく生きることのひとつだった。
完璧主義な自分に息苦しさなど感じたことはなかったし、むしろ明日香は正しく規律に乗っかり生きる事をこよなく愛していた。
常識とされる事を外れる行動や人間を忌み嫌っていたし、無論自分がそうなる事などありえない、そう思っていた。
だからこれ以上は失敗できない。軌道修正しなければ。
明日香は、心の片隅にいつもその思いを持っていた。
軌道修正。
完全な生活が乱れたのは信二との始まりだった。
堅物と言われながらも人並みに恋愛をしてきたが、明日香のそれは常に需要と供給であり、メリットとデメリットのバランスだった。そこに余計な感情などは皆無で、恋愛に置いても効率が良い事を好む明日香のその態度に、いつも恋人から愛想を尽かされ、殆ど同じ理由で振られていた。
自分から付き合いたいと言っておいて、男というのは随分勝手で感情的な生き物なんだな。などという感想を明日香は持っていた。
だから信二に対して湧き上がる自分の中の感情に、明日香はひどく興味を抱いた。
自分のミスを指摘されたあの日以来、明日香は常に信二の動向を伺って遠巻きに様子を見ている自分に気付いた。時折なぜか苛立ったり、心臓が握り潰されるような、味わった事のない自分の中の感情を、明日香は理路整然とは説明できず、日に日にそれを持て余し居ても立っても居られなくなっていた。
いくら明日香でもこの感情が巷で言われている恋の感情だというくらいは認識した。だけどそれは明日香にとって生まれて初めて感じるものだった。
それに気付いたところで為す術はなく、この想いは墓場まで持っていかなければいけない。
信二の左手薬指に光る指輪が、明日香にとって多分初恋のその想いを、そんな風に拒絶するしかできないのだと言い聞かせていた。
しかし、思いがけずに信二と恋仲になり、明日香にとって悪魔の爪先に接吻するような出来事は、やがて周囲の知れるところとなり、信二はこの会社から退いた。
どうしても手にいれたい。と、理性の垣根を超えて信二を盗ってしまった事は、完璧主義な明日香にとって人生最初で最後の失敗で、だからこの先は軌道修正をするのだと、毎日飽きもせず律儀にその信念に従って、今日も誰が使うのかもわからない書類をコピーし、有り余る定時までの時間を淡々と過ごすのだった。