見出し画像

明日香と信二2

 平日の昼時の公園は、赤ちゃん連れの母親たちと入れ替わるように、サラリーマンやOLのランチタイムに占領されていた。

 会社の近くにあるこの公園に、明日香も例に漏れず自作の弁当を持参し毎日来ていた。

 ひと気のないトイレ脇のベンチは、明日香の特等席で、そこへ腰掛けると、程なくして携帯が鳴る。

「あーちゃん、もういる?」

 毎日きっかり12時10分に同じセリフでかかってくるその電話に、明日香もいつもと寸分違わず同じセリフで返す。

「いる。」一言だけ告げ一方的に通話を終了し、膝の上に弁当を広げると、5分もしないうちに信二がこちらに向かい走って来た。

「待った?」

 信二のいつも通りのセリフを明日香は弁当の卵焼きを口に入れながら、横目で一瞥する形で答える。

「あー、腹減った」

 どっかりと明日香の横に腰を下ろすと、信二は肩から下げたランチジャーの中身を全て広げ、ベンチの上に盛大に並べた。

「おー、今日は生姜焼きがはいってる!」

 明日香に話しかけるとも独り言ともつかない様子で大袈裟に喜ぶと、信二は今朝明日香が作ったランチジャーの中身をかき込むように食べ始めた。

 その様子を横目で見ながら、明日香はここのところずっと口にしている言葉を投げかける。

「ねぇ、毎日毎日正午きっかりに休憩入れて、配達間に合うの?」

 明日香の問いに信二は、あはは、とハッキリした口調で笑い、まだ生姜焼きを頬張ったまま「心配症だなーあーちゃんは」と更に景気良く笑うだけだった。

 明日香は公園の脇に停められた信二が勤める運送会社のトラックに目をやり、諦めたように溜息を一息だけついた。

 信二は元々、今現在明日香が事務を務めている会社の上司だった。
 
調子が良くて八方美人で、部下にも上司にもヘラヘラと遜る浅い奴。信二に対し、そんな印象を明日香は持っていた。

 頑固で生真面目で融通のきかない性格の明日香は、意味もなくヘラヘラしているお調子者な人間を忌み嫌っていて、信二はその最もたる存在だった。

 そんな信二の印象を変えた出来事があったのはあの時だった。
 
 取引先から請求書が届いていないという連絡を受け、信二が明日香へ確認しにきた日のことだ。

「私はきちんと送りました。」

 有無をいわせずつっけんどんに返す明日香に、信二はムッとするでもなくいつも通りの愛想の良さで明日香を宥めた。

「先方は来てないって言ってるんだよね。俺も調べてみたけど、送った形跡がないから、一応調べてみてくれる?」
「そんなはずないです。絶対送りました」

 完璧主義な明日香は頑ななまでにきちんと仕事をこなしている自信を持っていた。だから、信二の言葉がまるで自分を咎める言葉に聞こえ、思わず反論した。
 その瞬間、信二の顔から笑みが消え、見たことのない真面目な表情に変わった。

「君の仕事は信頼してる。でもね、絶対なんてないんだよ。悪いけどすぐ調べて?」

 男の顔をしてる。と思った瞬間、明日香は思わず固唾を飲んだ。返事をしなければと思う程、口が馬鹿みたいに開くばかりで言葉を出せずにいる明日香に、ニッといつもの調子の良い笑顔を向けると、信二は明日香の肩をポンと一つだけ叩いてオフィスを後にした。
 
 顔が火照るのを感じ明日香は素早く俯いて唇を噛んだ。
 
 何なのあいつ。

 胸の奥で悪態付き苛々する気持ちを抱えながら、言われた通りに事案を調べると、確かにメールでも郵送でも先方に送った形跡がなく、それは紛れもなく明日香のミスだった。

 自分のミスと判明した瞬間明日香は顔面蒼白した。
人に頭を下げるのはプライドの高い明日香にとって何よりの屈辱だった。だからこそ完璧に何でもこなしてきていたのだ。
 謝らなくちゃ、と思うと、明日香は叱られた子どものように低く項垂れるばかりだった。

 夕方オフィスに戻った信二に、重い口調でミスを告げると、「あ、そう?」と、あっけらかんとした様子で信二が言った。
「あの…」明日香が続けて、申し訳ありませんでした、と言おうとしたところに、信二が先に言葉を被せた。

「よかったよかった!俺からも先方に連絡しとく」

 謝罪の言葉が明日香の喉につかえたまま、信二はまたもさっきと同じように、明日香の肩を一つだけポンと叩いて自分のデスクへと戻った。

「申し訳ありませんでした」

 明日香はデスクへ戻る信二の後ろ姿を見つめながら、喉のつかえを吐き出すように小さく呟いた。 

 厳格な両親に育てられ、世の中には敵か味方しかないのだという刷り込みによって生きて来た明日香は、   

 じゃあこの男は敵だろうか。味方だろうか。

 そんなことを思いながら、今しがたの事など何も位に介していない様子で同僚と談笑する信二を、阿呆のように突っ立って見ていた。

 少なくとも、味方と判断したから結婚したんだよな。と、口の横に米粒を付けている信二の横顔を見ながら、明日香は今ここに信二と居る事が不思議な気持ちでいっぱいになった。

「なに?なんかついてる?」

 いかにも楽しそうに言う信二の胸ポケットから着信音が鳴り、大袈裟な程身体をひとつビクリとさせ慌てて電話に出ると「はい!あー、はい大丈夫です、すぐ出ます、はい!」と、信二は見えない相手にペコペコと頭を下げた。
 
 そんな様子の信二を不憫な気持ちに思う一方で、明日香は電話を終えた信二に畳み掛けるように「だから毎日来なくていいって言ってるでしょ。GPSで管理されてんだから。クビになるわよ」と捲し立てた。
 
 そんな自分の優しさの欠片もない言葉で、いつも信二を悪戯に傷つけている気がして、その度に、まるで自分が浴びせられた言葉のように毎度傷ついていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?