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私的コロナ時代の記録⑦第一期最終回

【5月30日記録】
娘が朝「面白い夢を見た」という。聞けば、私がテーマパークで仕事を始めたので見に行くと、原始人の格好をして石器を作っていたという。そのアトラクションには「非言語かどんぐりで」コミュニケーションをとれると書いてあったが、「見て見ぬふりして通り過ぎちゃった」と笑う。家族の夢に出てくる私が普通だったことがないのはどういう訳か。
 今週は他県に続き、東京も緊急事態宣言が解除された。正直、自粛生活をどう終わらせていいのかわからない。新しい生活様式が自粛の延長線上にあるならば、一生自粛しているような状態だ。もともと個人活動が中心なので、世の中の動きが止まったこの時間が実は苦痛でもなかった。むしろ環境や精神衛生上、これからも世界中が持ち回りで1か月づつの自粛を続けたらどうかと思う(もちろん生活保障つきで)。非生産性を高めるという生産活動だ。それくらい自分には引きこもりの気質がある。2011年からの10年間がむしろ異例だった。
 振り返ると、三か月が早かったのか短かったのかよくわからない。気づけばカレンダーが半分近く減っている。桜が紫陽花になっている。オリーブパンをたくさん焼いたし、毎日ピアノも練習したし、映画もいっぱい観た。動画も撮っている。こんなに「罪悪感」を持たずに個人活動に集中できたのは久しぶりだ。東京都のアーティスト登録も完了したので、この内的思考の記録は仲間や家族の力を借りて記録に残しておく予定。
 聾CODA聴(雫境、米内山陽子)、カプカプ新井一座も少しづつ、ゆっくり、前に動き出している。手漕ぎの船に知恵を持ちこんで大海原に漕ぎ出す感覚だ。行先はわからないけどきっとどこかに着くだろう。
 散歩に出た家人が「えさ用」に売られていたヒメダカ10匹を買って戻ってくる。睡蓮鉢に放つとみんなものすごく元気がいい。弱ったメダカを食べても栄養にならないから、「えさメダカ」は元気なのだ。かと言って「えさ」として生まれてくるメダカはいない。経済活動のために「命の選別」をする人間の傲慢さから小さな命を救い出せた、なんて彼らがスイスイ泳いでいるのを見て自己満足に浸るのもまた人間の傲慢さだ。
 人間が活動している限り、コロナは収束しないだろう。私は新型インフルの収束宣言から数年後に仕事場で感染したことがある。免疫がないウィルスの感染力は、知恵ではどうにも避けられない状況があることも知っている。私も家族も老親もいずれどこかで感染するのかもしれない。それが「今」ではなく、ワクチンや薬が開発された数年後だったらいろいろ諦めもつくのだろう。人間はリアルを受け入れながら死ぬまで生きるしかないのである。この3か月で確信したことはそれだけだ。庭のゴーヤもトマトもいつも通り育っている。また暑い夏がやってくる。
 最終回だと思っていた歯医者さんで「では、来週はクリーニングと他の歯の治療ですね」と言われる。相変わらず顕微鏡メガネで覆われた顔の全貌はわからないが、明らかに先週の先生より小さい。なんと担当医が二人いたのだった。

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