エピローグ
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2022年の初夏から秋にかけて、この「チャクラの国のエクササイズ」を大幅に加筆しnoteに移転していく過程で、いくつかのとても印象深い発見、あるいは『出会い』があった。エピローグとしてはいささか情趣に欠けるかも知れないが、以下にそれを記していきたい。
ひとつ目は、6~7(7~8?)世紀に南インドのカンチープラムでパッラヴァ朝の宮廷詩人あるいはサンスクリット詩学者、更には物語作家として活躍したと言われる『ダンディン』との出会いだった。
ある日、いつもの様にサンスクリット語辞書サイトで調べ物をしていた私は、Dandaの項に興味深い文字列を見つけた。そのページはこれまでに何回もチェックしていたはずなのだが、それが取っ付き難いデーヴァナーガリの煩瑣なひとつながりの文字列であった為に、見逃してしまっていたようだ。
上の読みは分かり易く各単語を分けて書いたが、『ブラフマンの卵』はインド的宇宙論における始原の創世神話に登場するもので、本稿でも特にストゥーパとの絡みで取り上げて来た(これは『宇宙原初の胎』に連なるものとして後段で効いてくる)。
チャトラやダンダもこれまで繰り返し登場して来た本稿の核心部分とも言えるタームで、これら三つの単語がひとつながりの語として綴られたこの一節によって、一体何が意味されていたのか。私の興味は俄然その一点に集中した。
調べてみるとほどなくヒットしたのがダンディンの著作として知られる『Dashakumaracharita(十王子物語)』だ。件のサンスクリット語の綴りは、この書の巻頭に掲げられている韻文詩だったのだ。
上の英語サイトを見ると、驚いたことに、そこにはdaṇḍaの文字がこれでもかと連呼されていた。このサイトは非常に突っ込んだ読み解きをしていてとても面白いので、インド文化に興味のある方は是非読んで見て欲しい。
幸いな事に、このダシャクマーラチャリタの物語は大昔に出版された日本語訳があり、私はアマゾンでその古書を格安で入手できたので、以下にこの詩偈の日本語訳を引用しよう。
上の翻訳については、個人的に若干不満な点もあるのだが、とにかく日本語で読ませてもらえるのはありがたかった。
英語サイトの解説をも併せ読むと、この詩偈はどうやらヴィシュヌの化身である小人神ヴァーマナに捧げられた賛歌のようだが、これでもかと繰り返されるダンダの韻にはすっかりシビれてしまった(笑)
その名前『ダンディン』が示すようにこの作家は『ダンダ』というものに深い思い入れがあったのだろうか。そこには、これまで私が延々と論じて来た「チャトラの柄軸=蓮華の柄茎=車軸=ダンダ=スタンバ=世界の軸柱=至高神」という古代インド的な重ね合わせの同一視が、見事に活写され、証言されていた。
これを読んだ時にはもう、21世紀に生きる私の心と7世紀の古代インド人であるダンディンの心が完全にシンクロした思いで、死のダンダならぬ幸福のダンダに連撃された私の脳内にはエンドルフィンやらアドレナリンやらが一気に放出されて、「あ~、もう死んでもいい」というくらい感無量だった。
(この詩偈部分に関してはやや後世の加筆であるという説もあるが、大筋においてさほど違いはない)
もうひとつは、これも本稿の隠れテーマのひとつだった『マハトマ・ガンディー』の生きた肉声の証言だった。
糸車チャルカとヴィシュヌ神のスダルシャン・チャクラとの重ね合わせは、「終章 コスミック・ダンス:蘇るダルマ・チャクラ」で述べた様に、本稿における探求の必然的な帰結として予想された、ガンディー翁の鮮烈な心象風景だったのだが、それが本人自身の言葉として記録されておりそれを発見できた事は、これも感無量と言うべき『事件』だった。
これをネット上に発見し読み進めた時、やはり私の心は100年近く前のガンディー翁の魂の波動と完全に同調し、融合していた。これもダンディンの場合と同じように「この探求を続けて来て良かった」と深く思えた瞬間だった。
その手につかみ持たれた『ダンダ』が『ヴィシュヌ神=ラーマ&クリシュナ』だった、という読み筋については未だ肉声証言は発見できていないが、私が思い描くガンディー翁ならば、きっとその様に考えていたはずだ。
最後は、これは別ブログに既に書いてあるのだが、私たち全ての人間(あるいは哺乳類)が母胎の中で胎児として育まれる時に、その要として機能する『胎盤』についての発見だった。
上の画像を見れば一目瞭然な様に、胎盤というものは全体に円輪形をしており、その中心には臍の緒が付きその接続部からは放射状に血管が展開していて、蓮の葉や蓮華の構造に全く重なる姿をしていて、しかもそれは羊水に浮かんでいる!
このヴィジュアルを見た瞬間、私はパドマナーバと呼ばれるヴィシュヌ神の世界蓮華の構図を思い出していたのだが、話はそれだけでは終わらなかった。
この画像は以前「第五章 チャクラ思想の核心:蓮華の中心にあって、それを展開せしめる花托」の中で『蓮華蔵世界=世界蓮華』という視点で既に紹介しているが、蓮華蔵の原語が『パドマ・ガルバ』である事を考えると、全てがつながって来る気がする。
本投稿の最初に紹介したダンディンの詩偈の中で、神的チャトラの柄軸とこの世界蓮華の茎とが同じダンダのキーワードによって重ね合わされていたが、リアルな胎盤と臍の緒のヴィジュアルが直接的にこの世界蓮華思想の元になったと仮定した場合、それは『神的チャトラ=世界蓮華=胎盤』の等式が成立する事を意味する。
そこでは当然、チャトラの柄軸と蓮華の柄茎に加え胎盤につながる臍の緒を『ダンダ』でひとつに重ね合わせる心象が予想される(その大元には車輪と車軸がある事は言うまでもない)。
同じ「 蓮華の中心にあって、それを展開せしめる花托」の中で私は、女性性と蓮華との重ね合わせについて様々な角度から論じていたが、その根底には、この胎盤&臍の緒構造と蓮華&柄茎構造との重ね合わせがあった可能性が高い。
そこで私が思い出したのが、インド的宇宙観における『宇宙原初の胎』と、本稿で散々論じて来たストゥーパだった。この点に関してはやはり別ブログでもつっこんで考察しているので、興味のある方は読んでみて欲しい。
『宇宙原初の胎』とは、リグ・ヴェーダにおける宇宙創成神話で『黄金の胎児』と呼ばれていたものだ。本稿ではその主題の性質上これまで『車輪世界観』を中心に論じて来たのだが、この『胎』というコンセプトは車輪に勝るとも劣らない重要性を持っていた。
ここで「胎児が孕まれた」と言う以上、明言されていなくともそこには胎が存在していなければならず、動いた水とは出産時の破水を意味すると考えるのが妥当だ。
私はこれを『宇宙原初の胎』と呼んでいるのだが、そもそもこの『ヒラニヤ・ガルバ』は『黄金の胎』と訳すことも可能で、胎児と胎と、どちらが本当の主役なのか、その真意は錯綜している。
もちろんこの『宇宙原初の胎』は直接的にヴィシュヌ神の『世界蓮華』とも重なって来る。彼の臍から生え出して創造された世界蓮華が、リアルな胎盤の映しだとしたら、そう考えるのは至極まっとうだろう。
パドマ・ガルバ=パドマ・ナーバ=ガルバの内の蓮華なる胎盤=宇宙原初のガルバ
そしてこの宇宙原初の胎は、共に同じ「産みなすもの」として宇宙原初の卵と直で繋がっており、『アンダ』と呼ばれていたストゥーパ躯体とも密接な関りがあったのではないか、というのが私の読み筋だった。
ストーパが蓮華輪と重ねあわされその女性性によってブッダが「孕まれている」という以前に論じていた視点、そして、その頂には常にチャトラが掲げられていた事実を、その時私は思い出していたのだ。
ここまでの流れを踏まえた上で、もし『神的チャトラ=世界蓮華=胎盤』の等式が成り立つのならば、ストゥーパの天辺に立てられたチャトラは、同時に胎盤でもある事を意味しないだろうか。
私はこれまで、このチャトラの軸柱はブッダ自身だと論じてきたが、ストゥーパがもし原初のアンダであり同時にブッダを孕む胎でもあるならば、その頂に象徴的な形で胎盤チャトラを掲げるのは実に筋が通った話であり、その軸柱は『臍の緒』だったのかも知れない。
つまり、ブラフマ・アンダが宇宙原初の胎と同義であった事を前提にすれば、あのアンダと呼ばれるストゥーパの丸い鉢伏型は、本来臨月の母胎を象徴しており、その頂に掲げられたチャトラは、実は胎内にあって胎児を育む胎盤と臍の緒を外部化して掲げたシンボルなのだ、という仮説が導き出される。
それを証明するかのように、スリランカの仏舎利塔の呼称であるダーガバは『ダートゥ・ガルバ』に由来し、その語義はブッダの遺骨灰を孕む子宮なのだ。
この仮説は、ストーパ内部からチャトラに至る軸柱がブッダ自身であるという仮説と一見矛盾するようだが、そうではない。何故なら臍の緒とは母体と胎児を結ぶものであり、ある意味「胎児自身から生えている器官」だからだ。
(医学的には臍の緒も胎盤も受精卵から分化発生し、胎盤は子宮壁つまり母胎と一体化して胎児に栄養とガス交換を与える)
チャトラと蓮華の同一視(あるいは重ね合わせ)については、以前に指摘したように、インド各地の彫刻遺物において具象化した形で確認できる。
そして実は、ストゥーパのチャトラが蓮華そのものの姿をしている事例も存在する。それはマハラシュトラ州のベドセ石窟のチャイティヤ窟内部に造られたストゥーパだ。
チャトラと蓮華と胎盤との同一視を前提に、この仏教石窟寺院のそもそもの起源を考えた時、それは大地という母体に穿たれた子宮だったのではないだろうか。
インドの建築論であるヴァーストゥ・シャストラにおいて、建物を建てる最初の地鎮祭に相当する祭事において地面に穴が掘られそこに供物が奉納されるが、その穴は『ガルバ』と呼ばれる。日本でもよく知られた『地蔵』の原語は『クシティ・ガルバ』であり、その語義は『大地の子宮』だ。
本来的に子宮を含意していたストーパは、しかし実際の子宮とは異なり露天の白日の下にさらされていた。「それはちょっとおかしいんじゃないですか?」と母なる大地の体内へと回帰させ、子宮本来の内部深奥性を回復させたものこそがこのチャイティヤ窟だ、と考えれば、非常に筋が通る。
紀元前後からのおよそ1000年間、デカンの台地を中心にインド各地で掘削造営された石窟寺院の天井には、仏教、ヒンドゥ教、ジャイナ教を問わず、大きな蓮華輪が描かれる事が多い。
これら全ての石窟寺院が汎インド教的な文脈で『子宮』として最初から構想されていたと仮定すれば、この天井の蓮華輪もまた胎盤を含意していた可能性が見えて来る。
胎盤は子宮内壁にへばりつくように存在し、そこでガス交換や栄養の受け渡しを行っているが、それは胎児の頭上のチャトラの様な位置関係になる事が多い。石窟内部がイコール子宮内部ならば、その天井にある蓮華輪はこの胎盤の映し絵に他ならない。
子宮が同時に宇宙世界ならば、その天井に張り付く胎盤は天界の車輪であり、その下に横たわる胎児の丸いお腹は大地の車輪である、と見る事もできるだろう。正に天地世界創造の現場だ。
そして、このようなストゥーパから石窟寺院に至るガルバ性の流れを直接的に受け継いだ形で、ヒンドゥ寺院の神室である『ガルバ・グリハ』が構想されていたとしたら…
脳内で様々な連想イメージがスパークし続けて、エピローグにしては少々長く書きすぎてしまった。棒術の回転技という「チャクラの国のエクササイズ」との出会いに端を発した私のインド思想(沼w)探求の旅は、どうやらこれから先も、まだまだ続いていく事になりそうだ。
~完~
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