見出し画像

「救う」のがおこがましいときは


「こんな気持ちになるなら恋愛なんかしなきゃよかった〜」
同棲していた彼氏と別れた友人が泣きながら電話をかけてきた。
普段は割と恋愛にクールな彼女だが、今回ばかりは悲しみが電話口から溢れ出ている。

彼女とは3年間の九州&東京赴任の苦楽を共にしてきた仲だが、こんな状況を想定しておらず度肝を抜かれた。これまでの彼女の恋愛は、相手からの「好き」が上回ることの方が多かったからだ。それもあって、何かがうまくいかなかった時に私は、「相手が悪かった」「そういうこともあるよ」「次だ次!」といった調子で励ましていた。(恋多き女だこと)

でも今回は違う。
身を焦すような恋が終わってしまった彼女は、感情と呼べるぐちゃぐちゃな感情を両手いっぱいに、でもしっかりと抱えて号泣している。壊れてしまった大好きなおもちゃを抱えて、この世の終わりのみたいに泣く子供さながらの純真さだ。みているこっちが切なさでやりきれなくなる。

励ましの言葉も出ないと悟った瞬間、気づいたら一緒に泣いていた。慰めたって、共感したって、相手を批判したって、全て意味がないものに思えた。
もう深夜テンションで号泣!あっぱれ!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思えば不思議。
なんで手を差し伸べたい時ほど言葉は真価を発揮してくれないのか、と社会人になって思うことが増えてきた。これまでは「大丈夫だよ!」とライトに励ますことが多かったけれど、相手の悲しみを感じ取れば取るほど何も言えなくなってしまう。
それを跳ね除けるほどの言葉はない、とどこかで諦めているからなのだろうか。もしかすると悲しみや絶望の存在は打ち消すものではなく、”it is what it is” 精神で受け止めるものと思っているのかもしれない。大号泣するほどの感情を変える言葉はなくて、例えあったとしてもそれを語ろうとすること自体どこかおこがましい行為に思えてしまう。

でも救えるものなら救ってみたい。
大事な人のどん底を変えられる存在でいたい。
そんなことをぐちゃぐちゃ考えていた時、『言葉にできない想いは本当にあるのか』(いしわたり淳治著 / 筑摩書房)で面白い言葉に出会った。 

「100%のネガティブさを感じる状況であっても、一人の他者の存在を置くことで客観視できて、そこに数パーセントの面白みを見出すことができるのではないか」

これは、レンタルなんもしない人がエッセイの中で書いた言葉らしい。
人が「ただそこにいる」ことでいつか一緒に振り返った時に救われた気持ちになれる、と解釈した。目の前でゲームチェンジャーになる一石を投じなきゃ!と変にプレッシャーを感じていたので、なんだか心にすっと入ってきた言葉だった。
時間を共にすること自体が救いだったりする。自分が救われた経験も思えばそんなことも多かった。

結局彼女は泣きの電話の後、数日間私の家のソファーの住人となった。3食しっかりバランスの取れた食事を取り、ほとんどクッション性のないソファーベッドに根を生やした。「久々にこんな爆睡したわぁ」とぼやいていたので少しは休まったと思っている。

この悲しみがいつ明けるのかもわからないが、いつかあんなこともあったなーと早く一緒に笑い飛ばしたいものだ。
友よ、幸あれ〜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?