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99歳の「看板娘」が教えてくれた、命の源としてのシゴト

大学の頃、年末は毎年餅をついていた。

60年代からサークルで連綿と引き継がれてきた、米屋で正月用の餅を作るアルバイト。

風呂釜5個分くらいの餅を、住み込みで朝から晩までひたすら作る重労働ではあるが、4日で10キロ太るくらいの料理と酒とで毎晩もてなされた上、バイト代と餅を貰って帰る「美味しい」お仕事なので毎年参加していた。

年の瀬の米屋は書き入れ時。親族総出だ。

南方系の濃い顔で恰幅のいいご主人と、おっとりとしたおかみさんに、豪快な親父のもとでマジメに育った姉弟。そこに、ご主人そっくりの弟さんと、栃木なまりの純朴な叔父夫婦も毎年応援に来る。

急拵えの作業場で、米を蒸す蒸気と餅にまぶす片栗粉にまみれながら、自営業らしいキャラの立ちした面々が集って働くさまは、さながら大家族ドキュメンタリーのようだ。

「看板娘」

あと一人、90を超えた店主の母親がいた。

当時テレビで人気を博していた、100歳を超えた双子の姉妹「きんさん・ぎんさん」のような愛嬌のあるおばあちゃん。

日中店先にちょこんと腰掛けて、知った顔が来るとひたすら話している。店の前を通りがかりに目が合えば、そのまま呼び込まれてしまう。米を買うより、おばあちゃんの話の方が長いくらい。

来る方もそれを楽しみに来ているのか、

「おばあちゃん、ありがとう」
「おばあちゃん、お元気で。また来るね」

そう言って、何かを買って帰っていく。

命の源

私が住んでいた新宿7丁目の下宿の大家さんも、嫁入りの頃からのご近所友達と朝夕お茶を飲んでは同じ話をし、銭湯で一番風呂を浴びて寝る、判で押したような毎日を過ごしていた。

80歳を超えても元気なおばちゃん達だが、バブルで値上がりした土地を売って郊外に越した友達は、皆もう死んだそうだ。

その話を聞いて、米屋のおばあちゃんが、100歳近くなっても活き活きとしているのに合点がいった。

自分を慕うお客さん達から、毎日ありがとうを受け取ることが、彼女の元気の源なのだ。

毎年のお出迎え

毎年お店に行くと、まずはおばあちゃんが「学生さん、今年も宜しくお願い致しますね」と明るくお迎えしてくれる。

朝昼晩とおやつの時間は「すいませんね、耳が悪いもんですからね」と、年に似合わぬ大きな声で、ひたすら話し続ける。

町や商売の移り変わり。
昔の学生さん達の話。

いつも同じ話だけれど、とにかく朗らかだから、何となしに心が洗われる。そもそもばあちゃん子で、四畳半の下宿の大家さんの茶飲みにも付き合うくらいだから、年寄りの話は苦にならない。

毎年行くと覚えていてくれる。

「高橋さんは千葉のご出身でしたね」
「文学部だから本がお好きでしたね」

最終日の昼過ぎに配達を終え、お雑煮と熱燗を頂くと、バイト代とお餅をもらって、お別れのご挨拶。

「おばあちゃん、お元気で」
「高橋さんもお元気で。来年もお願いしますね」

卒業してからも、年の瀬には帰省の手みやげを買う口実で餅を買いにいった。

店を覗けば「あら高橋さん、今年もお越し下さいましたのね」と、いつものように陽気な大声で迎えてくれる。

ありがとうと言われる、一生の仕事を

おばあちゃんが100歳になる年。

例年のように米屋に着くと、配達帰りのご主人がいた。おばあちゃんは?と聞くと、その秋に亡くなったということだった。

「少し風邪気味だったから、大事をとって入院してね。病室でも元気にお喋りしてご飯も平らげて、すぐに退院だねと話していたら、ぽっくり亡くなっちゃった。おふくろも死ぬなんて思って思ってなかったんじゃないかな。もうひと月で100歳だったのは残念だけど、まあ、大往生じゃない。」

寂しくはあったけど、悲しいとは感じなかった。
大勢の家族に大事にされ、お客さんからも慕われ続けたのだから。

やがて私は学びの場づくりを生業とするようになった。

100歳まで現役だったあの米屋のおばあちゃんのように、「ありがとうと言われる一生の仕事」にしたいと思っている。


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