見出し画像

昨夜、君の夢を見た。

  昨晩、私が夢に出てきたと急に言われた。

 しかも、そう言うだけで中身は教えてもらえない。なぜか、異性にこの台詞を急に言われるとどぎまぎしてしまうのは自分だけだろうか。

 これが明らかに女性に慣れていそうな男性が言えば、華麗にスルー出来る。どうせみんなに言ってるのでしょう、と。

 しかし、この台詞の主は職場で席が隣の同期である戸山だ。
 無造作ヘアではない寝ぐせを折り重ねて拗らせただけの髪型で眼鏡が少し曇っていることを気にせず、安いからという理由で大手古本チェーン店の百円コーナーで適当に文庫本を買い読み漁る活字マニアのガリガリな男だ。
 戸山にどきっとさせられたことは入社したばかりのころ一度だけある。
 電卓のタッチと手指だ。指が滑らかに動くのだ。タッチが優しいのにスピードがある。そして、タッチのリズムも規則的なのだ。そして、男性らしい大きさの手をしているのに指が細長く爪の形も整っている。
 電卓を叩く手元だけを見たら、まさか寝ぐせを折り重ねて拗らせている髪型をしているとは想像できない。
 後にも先にも、戸山にどきっとしたのはその手元を初めて見た時の一度きりのはず。

 私は自分の反応に驚いた。
 この台詞を言って、女性を意識させることのできる男性はいわゆるイケメンからイケメン寄りのフツメンまでだと思っていた。この類の男性に言われても警戒するだけになっていることは三十路手前で気がついた。
 非イケメンにそれを言われて胸が高鳴るとは不覚なり。

 いやしかし、この人本当に活字にしか興味ないと思う。

 今は勤務中のお昼休みで、食事は各自のデスクで取る者が多い。
 戸山もいつも通りに自分のデスクで昼食をとっている。
 観光地の地名が印字された明らかにお土産物のブックカバーに包まれた、百円で買ったであろう文庫本を読みつつ、カップ麺を食べてエナジードリンクを飲む。食べ終わったらカップ麺の成分表示を読みながら、エナジードリンクを飲む。セクレタリアトという名の馬が書いてある親戚からもらったというマグカップでオフィスのウォーターサーバーから注いだ水を飲みながら、飲み終わったエナジードリンクの空き缶にある成分表示を読む。
 これが、戸山のルーティーンだ。

 そのお昼休みのルーティーン中、カップ麺を啜りながら文庫に目を落としたまま、急に私の名を呼んだのだ。
 「ねえ、諏訪。」
 「なに?」
 「昨日見た夢に諏訪が出てきたんだ。」
 非イケメンの、しかも戸山にこの台詞を言われて今まさに不覚にも胸が高鳴ってしまったのだ。
 心を落ち着けて、何でもない風を装って返事をする。
「へー、どんな夢だったの?」
「さあね。言うような内容でもないよ。」
「じゃあ、いわないでよー。」
「そうだよねー。ごめん。」
 戸山との会話はそれで終わった。カップ麺を食べ終わったのか、本を閉じて成分表示を読み始めた。
 私はそんな戸山の隣で平静を装うも、頭の中は大混乱だ。おかしい、なぜ戸山にそれを言われて胸が高鳴っているのかが意味不明だ。いくらここの所、恋愛はご無沙汰だからって戸山は無い。
 私が脳内で、「戸山は無い。」のループをしている横で戸山は普通に昼休みのルーティンを終えている。
 そして、無常にも昼休みは終わり仕事に戻る。午後からの仕事は散々である。変換ミスをしまくって、計算ミスを連発し全然進まない。

 もう本当に入社以来、ぶっちぎりで今日ほど仕事が進まない日はない。もう頼む、今日だけは早く定時になってほしい。普段真面目に仕事をしているから許してほしい。今日は定時で帰って、頭をリセットしたい。

 定時になる。午後の仕事中に戸山と接触することなく、ほっとしている。もし接触していたら、もっと仕事が進まなかっただろう。
 家までのいつも通りの帰り道もずっと脳内は戸山に支配されていた。だから、戸山は無いってば。

 家に帰って、簡単に食事を作っている最中も、お風呂に入って髪の毛を乾かしてベッドに入るまでも心ここにあらずだ。どうか、今晩の私の夢に戸山が出てきませんようにとだけ祈って眠った。

 朝が来た。
 いつも通り目覚ましを止めて、惰性でテレビを点けてニュース番組を流しながら、コーヒーを飲む。祈りは通じて、戸山の夢は見なかったけれど朝起きても昨日の胸の高鳴りは記憶のままで、それを意識した瞬間にまた脳内は戸山に支配された。

 私はボーっとする頭で、思考する。だから、戸山は無いって。いやでも、こんなに気になるのってなんで。
 なんでだろう。そういえば、私いくら席が隣でも戸山の昼のルーティーンを知り過ぎてる気がする。
 そういえば、最近戸山が好んで食べるカップ麺の傾向を掴んでいる。先週から豚骨モードのようだ。
 そういえば、エナジードリンクはここ最近黒い缶の物が続いている。
 そういえば、文庫本にカバーがかかったのは昨日からだ。
 私、もしかして戸山のこと結構見てる。なんでなのかは、分からない。いや、分かりたくないだけなのか。

 私は体に染みついている、朝の支度を終えて家をでる。通勤中にネットニュースをいつもは見ているのに、今日はだめだ。なんで私は戸山を結構見ているのか、という議題で私の脳内会議は開かれっぱなしである。
 もしかして、いやそれはない。だから、戸山は無い。無いけど、じゃあなんで。変わってるから面白くて観察してるだけのつもりだったはず。そういうつもりは一切なかったはず。

 いつも通り高田馬場駅で下車し、職場に着いた。脳内会議は一向に終わる気配がないけれど、仕事はしないといけない。今日はミスをしたくないので、しかたなくスピードを落とす。スピードを落として仕事をしつつ、脳内会議を続行する。

 もう、こんなに仕事に影響が出ているなら今日の昼休みに昨日中身が言うほどのことでもないのになんで私が出た夢を見たなんて言ったのか、戸山に聞いてみるしかない。今日だけは早く昼休みになってほしい。昨日の午後から集中できてないから、早くどうにかしたい。

 昼休みになった。いつも通り、戸山はカップ麺に湯を注いで出来上がるのを待っている。待っている間に、昨日から土産物のブックカバーがかかった文庫本を読み始める。
 今だ。今聞こう。聞いてしまおう。

「ねえ、戸山。」
「なに?」
 私は出来る限り、何気ない風を装う。
「昨日、なんで中身が言うほどでもないのに私が夢に出てきたなんて言ったの?」
 私は、本当に出来る限り昨日の変な発言を揶揄する同僚のスタンスを崩していないつもりだ。
 突然、戸山の口元がにやりとしたのは気のせいだろうか。
「これだよ。」
 戸山はお土産物のブックカバーがかかった文庫本を差し出す。
「なに?どういうこと?」
 戸山は私に文庫本を開くように促す。

 文庫本を開くと、私は目を疑う。
戸山の口元がにやりとしたのは、気のせいではないらしい。

『意中の相手の意識を自分に向けさせる方法』とそこには書かれている。

「その本に書いてある通りのことをしてみた。」

 不覚にも私は、また戸山で昨日よりも胸が高鳴ってしまった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?