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アイツはいつも、スノードームの中。

 今朝もいつも通り、大学の近くにあるカフェで授業前のバイトに出る。個人経営の小さい店だが、オフィスビルが立ち並ぶ中にあるので七時の開店から九時手前くらいまでは飛ぶようにコーヒーが売れる。店舗内のわずか十二席のイートインスペースには勉強をしたり、今日のスケジュールや作業の確認をしているような雰囲気の人々がいる。

「花房くん、おはよ。」

 一応、アルバイトの花房に声をかける。相変わらず、返答はない。
 開店準備を始める六時まであと十五分ほどだが、花房はいつも早めに来て着替えを済ませてニュースアプリを見ている。家がこのカフェの近所で、大学はここから山手線で三駅先にあるという。
 真横まで来て挨拶をしているのだけれど、まるで聞こえていないかのように反応がない。それは、いつものことだ。
 初めは無視されているのかと思ったが、没頭しすぎると人が真横に来て話しかけても本当に聞こえないらしい。
 バイト中、用事があって話しかけても作業に没頭しすぎて返答してもらえないことがあった。仕方なく肩を叩いて話しかけたらそういう傾向があることを教えてくれた。

「おはよ、池田さん。来てたんだ。」

 更衣室から出た私に気が付き、挨拶してくれた。
 オーナーの島津もやってきた。島津はこのカフェが入居しているビルのオーナーでもあり、最上階に住んでいる。ビルにある全部で十室のオフィスに入居しているのは、殆どが士業の事務所だ。
 島津は「俺ヤメ検だから、その時のつながりで入居者は途切れ無くて助かる。」と言っているがヤメ検って検察官をやめて弁護士になった人のことを言うのではなかったか。「ちょっと何言ってるかわからない。」と言う台詞でおなじみの芸人さんに似ていて、体は大きく、角ばっているけれど優しい顔をしている。花房の叔父だ。

「池田さん、実樹生、今日も頼むな!」
 そう言いながら、島津は一日十食限定のモーニングとランチを仕込むために厨房に入っていく。

「岳志くん、気合入ってるなー。今日のまかない楽しみだね。」
 花房は表情を変えずに、声のトーンだけが上がっている。
「オーナー、なにか良いメニューでも思いついたかな。楽しみだね。」
 私も、バイト後に食べさせてもらえるモーニングのメインとランチで出すパンを組み合わせた賄いが楽しみなのだ。

 島津が厨房で仕込みをする中、花房と二人で店内の掃除など開店準備を進めていく。開店時間となりコーヒーの注文が入るまでの間、花房にフレンチプレスコーヒーメーカーの拭き上げをレジカウンター付近で任せ店のドアを開けに行く。
 その時、入り口付近の観葉植物に水をやり忘れていたことを思い出し慌ててじょうろを取りにバックヤードへ走る。じょうろに水を満たして、店内に戻ると不穏な空気が漂っていた。
 お客様はレジカウンター付近にいる花房に声を掛けコーヒーを注文しようとしているが、花房はそれに気づかず作業に集中してしまっている。お客様は声を大きくして花房に話しかけるも聞こえていない。
 慌ててお客様に声がけする。開店時刻付近にいつも来てくれる常連客で、ほっとする。
「申し訳ございません!お待たせしました!」
 お客様の声に負けないの大きさの出来る限り愛想のよい声色で最大限の笑顔を向ける。
「殿山さん、いつもありがとうございます!今日もハンドドリップでよろしいでしょうか?」
「実樹生君、また集中しちゃってたか。池田さんがいてよかったよ。」
「申し訳ございませんでした。」
 殿山は常連客で、同じビルの2階にある法律事務所のボスだ。島津とは司法修習の同期で、花房は小さいときに遊んでもらったことがあるそうだ。事情が分かっている人で良かった。花房の肩を叩いて声を掛ける。
「続きは私がやるから、ハンドドリップ、ひとつお願いします。」
 レジに入り、花房にはドリンク作りに入ってもらう。花房もやっと事情を呑み込み慌てた様子で殿山に平謝りしながら、コーヒーを作りに向かう。
「大丈夫だよ!気にしないでね!!」
「殿山さん、すみません。」
「実樹生君の淹れてくれるコーヒーがうまいから大丈夫!この後すぐ八山さんも来るから、そこのテーブル使わせてもらうね。」
 殿山はそう言いながら、会計を済ませてこのカフェ唯一のテーブル席に座る。同じフロアの隣の部屋に事務所を構える税理士の八山と朝ここで打ち合わせをしていくことが度々ある。ほどなくして八山がやってくる。
「いらっしゃいませ。おはようございます!今日もアメリカンでよろしいですか?」
「ああ、よろしくね!」
 仕込みを終わらせた島津が厨房から出てきた。
「おはようございます!八山さん。ゆっくりしていってくださいね。」
 八山に声を掛けながら、花房のいる珈琲を作るカウンターに入る。この朝一番に来る常連二人を皮切りにここからは、雪崩のように珈琲の注文が入る。

 島津は花房の肩を叩き、元気づけるように声を掛けた。花房はいつものこととは言え、気にして少し落ち込んでいるようだ。
「じゃ、今日もハンドドリップは実樹生よろしく!お前が朝入る曜日は珈琲の売り上げ上がるから。頼むわ。」
「はい!」
 花房は島津に励まされ、元気よく返事をした。
 ここから九時過ぎまで、ひたすらレジ打ちとイートインコーナーの片付けとを繰り返す。花房はひたすらコーヒーをドリップして、島津はそれ以外のドリンクを作ったり時々モーニングを作ることを繰り返した。

 十時になる十分ほど前に、島津からバイトを上がる前の作業を言い渡され、花房は客席の掃除に向かった。
「池田さんは、ドリンクのカウンター掃除頼む。」
  島津はドリンクカウンターの端でコーヒーカップを拭いている。
「殿山が来た時、実樹生のカバーしてくれてありがとな。」
 コーヒーカップを拭く手を止めず、一瞬こちらに視線を向け優しく落ち着きのある声でゆっくりと話した。
「大丈夫ですよ!逆に私、花房君みたいな集中力とスピードもあるのに丁寧な作業できないですよ。本当に無駄がないですよね。」
「そういってもらえるとありがたいよ。」
 島津はそういうと、ふうっと息をつき言葉を続ける。
「アイツってさ、水の入った丸いガラスの中にサンタとか雪だるまとかの人形がいて家とかあって、ひっくり返すと雪が降ってくるやつ・・・あれ、なんだっけ。」
「あー、スノードームですね。」
 カウンターの上にこぼれているコーヒーの粉を、小さいほうきとチリトリを使って掃除をしながら話を続ける。島津も拭いたコーヒーカップを棚にしまい、次に拭くカップを手に取り拭き始める。
「あれ、そういう名前だったか。アイツってそのスノードームの中にいる人形みたいなもんだなって思ってね。」
 島津はカップを拭く手を止めずに、花房に視線を少し向けてまた手元に視線を戻した。
 「アイツなりの世界があって、そのスノードームみたいに小さい空間だけれどものすごく完成度が高くて、その世界に入れてもらうようなつもりでアイツに話しかけてるんだ。」
 スノードームみたいだという島津の表現は、何となく頷けるものがあった。ガラスのドームで周りから遮断されているけれど、完成度が高い世界。花房という人が作る、ものすごく精度が高い秩序が保たれている世界。
 カウンターにアルコールスプレーをかけて、拭き上げる。
「なんとなく、オーナーの言うこと分かります。」
 そこまで話したところで、花房が戻ってきた。
「客席の掃除、終わりました。」
「おつかれ!厨房に賄いあるからもってけ!池田さんも、賄いもってあがっていいよ!」
 花房と一緒に賄いの皿を持ってバックヤードに下がる。今日も他愛もない話をしながら、賄いを食べてバイトを上がってそれぞれの学校へ向かった。

 あれから、また同じような朝を何度も繰り返した。そして、また同じように六時の十五分前に到着した。いつもどおり返事はないだろうけれど花房に挨拶をした。
「花房君、おはよ。」
「おはよ、池田さん」
 花房はスマートフォンから顔を上げて、しっかりとこちらに視線を合わせて挨拶してくれた。
「はじめて挨拶返してくれたね、ありがと。」
 思わずそう言ってしまって、はっとした。今まですぐ挨拶を返してくれなかったことを不満に思っていたわけでないのに、これでは不満を伝えてるみたいではないか。
「いままでごめん。最初は本当に気が付いてなかったんだけれど、実は途中からネットニュース読んでても池田さんのおはようは聞こえるようになってたんだ。」
「え?そうだったの?」
「ごめん、時間無くなっちゃうから着替えながら聞いてくれる?」
「分かった。」

 更衣室に入って、ドア越しに花房の話の続きを聞いた。
「朝一番で殿山さんに気が付かないで無視してる感じになっちゃった日、あったでしょ。ああいうことがあると怒ってくる人が殆どだし、変人扱いされることが多いんだ。でも池田さんはずっと変人扱いしないで、個性として扱ってくれてるってあの日に気が付いたんだ。」
 花房の言葉を聞きながら、私は脱いだ服を畳んでバッグにしまい黒いスキニーを履きながら答える。
「花房君は確かに没頭しちゃうと聞こえない事あるけど、その代わりその没頭して作業したものが全部丁寧できれいに出来てるし、早いよね。私はあんな風に出来ないし、すごいと思ってる。一緒に仕事してるんだからお互いの得意なことで補えばいいんだよ。」 
 話しながら白いシャツを着て、全部のボタンをかけ終えて更衣室を出る。花房の手はスマートフォンは無かった。
「池田さん、返事ないの分かっててもずっと挨拶続けてくれたでしょ。そのことにもあの日の次の朝に気が付いた。その時に意識が向いていることにしか気が付かないのに、池田さんの挨拶が急に聞こえるようになった。」
 花房の言葉を頭の中で整理しながら聞いていた。その時に意識が向いていることにしか気が付かないけれど、自分の挨拶が聞こえるようになった。ということは、自分が花房の意識することの対象になっているということだ。
 それは、つまり、どういうことだろう。
「バイト始まる前に急にこんな話してごめんね。つまりね、もしよかったらもっと池田さんとバイトの時以外にも話してみたいって思ってるんだ。」
 どうやら、花房のスノードームの中に入れてもらえるらしい。今まで、こんな風に言ってもらえるなんて期待していなかった分、余計に嬉しい。
「ありがとう。バイト上がった後、賄い食べながらLINE交換しよう。」
 精一杯の笑顔で言葉を発したけれど、スノードームの雪に紛れて隠れてしまいたい。
 エプロンの紐を結ぶ指が、少し震えている。



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