【ゲルト追悼特集②】輝かしいキャリアの中で、その栄光と苦悩とは...
—— 以下、翻訳 (ドイツ『ビルト』紙の記事全文)
ドイツ中が、日曜日にこの世を去った「ドイツの爆撃機」の死を悼んでいる。火曜日にドルトムントで行われたスーパーカップでも、ゲルト・ミュラー(享年75歳)のために1分間の黙祷が捧げられた。
『ビルト』が、我々の最も偉大なストライカーの物語をお届けしよう。
今日。それは黄金時代
ゲルト・ミュラーにとって1970年代はまさに黄金時代だった。そして、ミュラーのおかげで、FCバイエルンの黄金時代、ドイツサッカーの黄金時代は訪れた。このスポーツを愛する、すべての人々にとっての黄金時代だったのだ。
パウル・ブライトナーは今でもミュラーを愛しており、最近では、重度の認知症を患った選手のベッド横に座った。70年代、彼にクロスを送っていた男だ。「ゲルトは、私が出会った中で最も偉大なサッカーの天才だった」とブライトナーは熱く語る。「ロナウドとメッシを合わせたよりも偉大だ」。この上ない褒め言葉だ。
1974年、ワールドカップ決勝のオランダ戦、ブライトナーがPKを決めて1-1の同点に追いつくと、ライナー・ボンホフはミュラーに向かってクロス。ボールはわずかに跳ねたものの、ミュラーはそれを押さえ、相手選手のウィム・ライスベルゲンを蛇のような動きでかわし、信じられない速さで体を回転させると、ボールをファーサイドに突き刺す。そして、西ドイツが世界チャンピオンに輝いた。
この記事の筆者である私(ライムント・ヒンコ)は、何百ものミュラーのゴールを見てきた。そのうち4つは、1972年、ミュンヘン・オリンピアシュタディオンのこけら落としとなった試合、4-1で勝利したソビエト戦だ。2-0の時には、あまりの速さでウリ・ヘーネスごと一緒にゴールに突っ込んでしまった。その1ヵ月後の欧州選手権の決勝、再びソ連と対戦し、ミュラーの2ゴールなどで3-0と快勝し、西ドイツは欧州チャンピオンになったのだ。
1974年に栄冠に輝いた際には、アトレティコ・マドリード相手に4-0の勝利へ導く、彼の2つのスーパーゴールがあった。鋭角からのシュートはクロスバーの下に決まり、14メートルからのロブはGKミゲル・レイナの頭上を越えて決まった。バイエルンは、ドイツ勢として初めて、現在のUEFAチャンピオンズリーグの前身、UEFAチャンピオンズカップを制覇したのだ。続く1975年と1976年にも、ミュラーのゴールで、さらに2度の欧州制覇を成し遂げた。
「ミュラーのゴールは、まるで魔法のようだった。もし中世なら、彼は火あぶりにされていただろう」とサッカー歴史家のウド・ムラス氏は語る。
1972年6月18日:ソ連との欧州選手権の決勝。ゲルト・ミュラー(写真左から2番目)が得点し、最終スコアを3-0とした。この試合、GKエフゲニイ・ルダコフ相手に1-0のゴールも奪った。合計4ゴールを挙げたミュラーは、大会得点王となった。写真左は、ゲオルク・シュヴァルツェンベック
ブンデスリーガ427試合で彼が決めた365ゴールのうちで、筆者が最も気に入っているのは、1976年9月、テニス・ボルシア・ベルリン相手に9-0で勝ったときのシンプルな8-0のゴールだった。 ミュラーは地面に倒れながらも、ボールに奔走し、左足でゴールラインの向こうに押し込んだ。このゴールは、今月のベストゴールにも選ばれた。他の選手なら、おそらく足を引き抜いていたような場面だ。しかし、ミュラーはゴールへの執念にすっかり取り憑かれていた。それでもやはり...
彼を、ごっつぁんゴールの王様のように貶めようとする者もいた。だが、ミュラーはより完成された選手だったのである。まさに天才だ。
1972年11月、スイス相手に5-1で勝利した試合でも、まさにそうだった。彼はこの試合、4得点を奪ったことよりも、6人の相手に囲まれながらも、ヒールでのギュンター・ネッツァーとのワンツーから、7メートルの距離でボールをネットに突き刺したことの方がよほど嬉しかったようだ。そしてこのゴールは、ドイツTV局『ARD』の年間ベストゴールに選ばれた。彼は「爆撃機」というニックネームが好きではなかった。「ドイツの爆撃機」も同じだ。「オレはゴールを爆撃なんてしないさ。ペナルティエリアからゴールする。ボールをなでるようにだ」と、よく筆者に文句を言ったものだ。
ゲルト・ミュラーのひらめきもまた、ゴールを狙うのと同じように自然に湧き出るものだった。西ドイツは、1974年のワールドカップで、東ドイツ相手に0-1で敗れていた。
当時の代表監督ヘルムート・シェーンは、フランツ・ベッケンバウアーとゲルト・ミュラーの2人部屋で危機対策会議を行った。カイザーは変化を求めた。ミュラーは「ウリを出してくれ」と口にした。ユーゴスラビア戦ではヘーネスを先発から外して2-0で勝利し、続くスウェーデン戦ではヘーネスの1ゴールなどで4-2で勝利した。
「ミュラーは、ペナルティエリア外では子羊だ。しかし、エリア内では、まるで猛獣のようになる」。オーストリア代表選手のノルベルト・ホフは、西ドイツ戦で敗れた後、彼をこう讃えた。
なんて適切な表現なのだろう。ミュラーはいつもお人好しで、礼儀正しく、温厚で、しばしば無関心のようにすら見えた。
「重要なのは、オレの平和を守ることだ」。ところが、1970年ワールドカップの前には、彼自身が猛獣のようになってしまった。ウーヴェ・ゼーラーとセンターフォワードの位置を争っていたが、ドイツ国外のスタジアムではファンが「ウーヴェ、ウーヴェ」とコールを送り、ミュラーを嘲笑していた。「ウーヴェかオレか、どっちだ!」、ミュラーはそう主張した。それに対し、ヘルムート・シェーン監督は、チームから追放すると脅した。
結局、ミュラーは譲歩した。「オレが悪かった」
"精神分析医" シェーン監督は、ミュラーをウーヴェと2人部屋にした。それ以来、33歳の彼は、メキシコの真昼の暑さと高山の空気の中、顔を真っ赤にしてミュラーの後ろで動き回った。この大会、24歳のミュラーは10ゴールを挙げ、ワールドカップ得点王になったのだ。
準々決勝のイングランド戦は、0-2のビハインドからの逆転劇で、2人ともヒーローになった。まずはゼーラーがヘッドを決めて2-2とし、延長でミュラーが右足を2メートルの高さまで振り上げて(妻のウッシーは彼を芸術家と呼ぶ)3-2を決めた。 最後はイタリアとの準決勝で3-4で敗れたものの、史上最も人気のある代表チーム同士がピッチに立った。今なお "世紀の一戦"と語り継がれるこの試合でも、ミュラーの芸術的な2ゴールが炸裂した。
それ以来、ミュラーは世界中で愛され、尊敬されるようになった。ミュラーが誤解されていると感じることが多かったのは、自国の中だけだった。1974年ワールドカップ決勝の後、FIFAによって女性は優勝パーティーに参加できないとされたことが原因で、彼が代表を引退したと言われたのも、その一例だ。ミュラーは筆者に「何てくだらない話だ」と明かした。「この大会期間中すでに、オレはヘルムート・シェーン監督にワールドカップ終了後に引退すると伝えていた。ストレスがたまりすぎていたんだ」
ミュラーは、2、3試合と得点できないと、不調ではないかと絶え間なく言われるので、ますますプレッシャーを感じるようになった。友人のフランツ・ベッケンバウアーとの間には、怪しい代理人に煽られ、ドイツサッカー界の覇権をめぐる争いがくすぶっていた。しかし、そうしたことがあっても、友人関係はずっと続いていた。
ミュラーにとって、さらに気掛かりだったのは、飛行機恐怖症だった。筆者の私がこれを感じたのは1973年6月、バイエルンやベッケンバウアーのマネージャーであるロバート・シュヴァン氏から、「ドナウエッシンゲンで行われる親善試合(ACミランとの5-5の試合)だが、飛行機で行くかい。ミュラーの席が空いているから」という提案を受けたときだった。
この機体はかなり低空飛行していた。ミュラーの乗るメルセデスが、"タクシー・マイヤー" こと、私設運転手のルドルフ・マイヤーの運転でスタジアムに向かう様子が、大きな歓声の中で見られたほどだ。ミュラーはこの小型機を疑っていた。彼は普段、ウィスキーを1、2杯飲んでからでないと飛行機には乗らない男だ。
「ほら見な。幸運にもフライトが無事到着したら、シャツのポケットに100マルクを入れているんだ」、そう彼は教えてくれた。「次に教会へ行くときに、献金箱に詰め込むからさ」
ミュラーは、フィットネストレーニングが自分にとって地獄のような試練になっていると何度も訴えていた。それも、年々悪化していったのだ。1979年2月3日が訪れるまでは。
この日の午後5時7分、パル・チェルナイ監督はフランクフルトで箱から9番を取り出した。ゲルト・ミュラーをピッチから下げたのだ。これは、ブンデスリーガ通算426試合目にして初めてのことだった。
当時33歳だったミュラーは、「奴はオレにとどめを刺そうとしている」と深く憤慨した。「奴はオレを使って名を上げたいと思っているんだろう」と。なお、この交代シーンはテレビには映っていない。まるでカメラマンが憤慨してストライキを起こしたかのように。
その数日後、"タクシー・マイヤー" は、バイエルンのヴィルヘルム・ノイデッカー会長に手紙を出した。その中には、ミュラーの即時契約解除や、送別試合は不要の旨が書かれていた。「彼はもう限界だ」とマイヤーは伝えた。
私はゲルトと一緒にフロリダに飛んだ。彼の新しいクラブである、フォート・ローダーデール・ストライカーズに向かったのだ。私たちは自分たちに麻酔をかけた。私自身も飛行機に乗るのは不安なので、強力な飲み物で....
★★★
次回の連載記事も是非:アルコール、救い、そして病気へ