私がnoteアカウントを作成した理由(佐川車掌の場合)

皆様、はじめまして。佐川車掌と申します。
本アカウントでは、主に旅行や歴史、科学技術に関する記事を投稿していきたいと思っておりますが、その前になぜnoteアカウントを作ったか備忘録的な記事(フェイクあり)を投稿しておきたいと思います。

アカウントを作った経緯

皆さん、人生に満足していますか?
①家族や仕事に満足しているしこれ以上望むものがないという人、
②現状に不満を抱えつつも受け入れざるを得ない人、
③燻っていて生涯にわたって成長し続けていきたいという人…様々でしょうか。

ちなみに私は③です。
人生や仕事にもどかしさを感じながら、生きています。
大概の人は同じだと思いますが、文句は言いつつ現状維持になってしまったり、既婚者で特にお子さんがいる人なら、①・②の志向になる方も少なくないと思います。

子供のころは、成りたい大人=「夢」というものあったともいますが、現実には逆らえず妥協の人生を送っている方が大半ではないでしょうか。
それでも、30代以上でも「夢」を叶える人は居ることはいます。
そこで、「行動するクセ・習慣をつけつつ、皆に知識を還元したい」と思った経緯を次に示します。

「夢」を追うことの難しさ

私はギリギリ平成生まれのアラサーで、物心ついた頃は「失われた20年」の入り口の頃であった。
両親からは事あるごとに「不景気」であることを強調されて、節制生活のイロハを叩き込まれていた。

しかし、実感としては今ほどの閉塞感は感じなかった。
週末、ロイヤルホストへ行けば相当な順番待ちは当たり前だったし、
大黒PAに行けばマイカーでドライブに来た家族・カップルがわんさか居たし、
そもそもデート代は男が女に全額奢ることは「当たり前」だし、
人によるが、年末年始にハワイに行くことは、変な事ではなかったのだ。

そんなバブルの頃の残り香が、楽天的な思考が日本社会を覆っていた。
思えば、黒船来航から約150年で富国強兵を成しえて、Japan as No.1と褒めたたえられたという慢心が社会全体にあったのだと思う。

「世間」で良いと言われていることをそのままトレースすれば、安心であるという王道は、近現代における一種の成功経験により生まれたものであろうか。
普通の「野原ひろし」的サラリーマンになることは王道であり、自分から何かを掴みに行く奴らは可笑しい奴らの様に思われていた。

そんな中で、私は「普通」が嫌いであった。世間では珍しく、夢を持って生きたいと思っていたのだ。
そんな態度が「普通」を志向する人たちからは疎まれていたと思う。(今もそうかもしれない)
子供の頃の夢は「エアラインパイロット」であった。
もともと産業革命以後の近現代史・旅行や地図が好きであったことと、父親が海外出張へよく行っていたことへのあこがれから、そのような夢を持ったのである。
しかし、受験英語如きで躓いた私は、「パイロット」になる夢を諦めてしまった。

次に志望したのは「研究者」になることであった。
だが、2000年代の2chとニコニコ動画という魔界にハマってしまった私は、受験勉強の不足からか工学部の希望していた学科に全落ちしてしまい、次点で希望していた学科にギリギリ合格した。
学部時代はそつなく課題をこなしたが、大学4年になり研究室配属が決まると、そこはスパルタ教育の現場であった。
精密機器を扱う研究室で手先の不器用が手伝って成果が出せなかったこと、そもそも学科で学んでいた内容が自分の興味でなかったこともあり、大学院を中退することも考えたが、新卒カードなしで就職する難しさがあり自分を押し殺した。

そして、研究とは全く異なるギョーカイの「技術者」を志望し、現在の会社に内定を貰った。「普通のサラリーマン」になる道を選んだのである。

「希望」と「現実」の狭間で

某年4月、晴れて弊社に入社した私は、サラリーマンとしての一歩を踏み出した。
専攻とは違う業界で新卒カードが無ければ就職できなかったと思うので、「普通の会社」ではあったが、ある意味希望をかなえた就職であった。
だが、入社早々一番困ったのは、生き方の志向の異なる者との会話であった。

学生時代はお互い夢を語れる相手しかいなかったが、相手を蹴落とすことしか考えない、ゼロサムゲーム志向・減点方式の人間が社内に多く存在したのであった。
安定産業においては普通のことを普通にできる事は悪いことではないのだが、今の立場に甘んじてしまえば、技術者としての技量向上には繋がらないと考えている私は必要以上にかかわらないようにしていた。
が、相手方からすれば、なんでも数をこなして成功したものを評価するという加点方式の人間は周囲の和を乱すだと思ったのか、おこぼれに預かりたいと考えたのであろう。事あるごとに絡んでくるようになった。

入社早々(いらぬ)悩みを抱えてしまった。

研修の終わりに、配属された部署が発表された。が、自分が内定時に希望した部署ではなかった。
配属されたのは、現業部門での施工管理であった。出張族になることが決まった。

出張族は悪いことだけではない。握りは内勤者よりも相当良いし、独身ならやりくりによっては1年ぐらいで新車を買うことも夢じゃない。
一方で、資格試験やセミナーの受講、有給休暇の取得といったことは難しい。
出張先で彼女を作ろうにも、出張場所が何時変わるか分からないので腰を据えた交際は難しい。うれしさ半分、悩み半分といったところだろうか。
でも、新しい出会いが無いのは、長期的には成長に繋がらないからデメリットの方が大きいかもしれない。

従って、自身の成長のためには自分自身が動くしかないと、悟ったのが20代後半であった。

だが、忙しい現場に放り込まれて数年、酸いも甘いもあったが、あっという間に貴重な20代が過ぎていった。

沖縄で「夢」を追いかける人と出会う

夏のある日、沖縄への出張を命じられた。
独り身の自分は特段困ることはない、ただ、実家へ気軽に戻れる場所ではないし、2年は戻れないと聞いていたのである程度本格的な荷造りして乗り込んだ。
沖縄は良くも悪くも村社会で、のんびりとした人が多い。(道東もそうか・・・)
そんなんだから、知り合った職人と身の上話をするのはよくある話である。

離島出身で70代の大城さん(仮名)は、産業がなかった地元で魚介類の養殖に成功した人であったが、何故か本島に来て職人をしていた人であった。
更に話を聞くと、実は筆者の地元の高校に留学(沖縄返還前)する為に島を出て来て30年程住んでいた人だったこともあり、すぐに仲良くなった。
高校中退後に新興住宅地の造成にも関わったりと、仕事は転々としている人であったが、新しいことに積極的にチャレンジする人で、模型飛行機の趣味を始めてみたり、事あるごとに資格取得に進んで取り組んだり、
私が新たに仕事をお願いするにあたり「酸欠硫化水素危険作業主任者」という資格を積極的に取ってくれたりと素晴らしい人であった。
さらには、事あるごとに、今後は自動車整備士2級を取るのだと意気込んでいた。
人から見れば失敗も多いが、成功も多くしている。加点思考の人間としてはかくあるべしと思える人であった。
彼とゆんたくしながら飲むファミリーマートの100円コーヒーは、ホテルニューグランドのコーヒーより旨く感じたものだ。

・・・結局、大掛かりな荷造りしたにも関わらず、半年で沖縄から内地へ帰ることになったが、私は彼に出会うことで、今も物事に積極的にチャレンジする精神を忘れないでいられている。

そして、忙しさや年齢を言い訳にしていたら何もできない、出来る範囲でチャレンジしていきたいという気概を持つことが出来たのである。

このnoteで公開したいこと

このnoteアカウントは、自分自身のアウトプットの訓練の場として、
主に旅行や歴史、科学技術に関する記事を投稿していきます。
週末のお出かけの参考になるであろう、楽しい記事を書ければと思います。

最後に

最後までお読みいただきありがとうございました。わずかな時間を見つけて、気ままに発信していければと思っています。
(誤記等あればお知らせください、気が向いたら直します。)

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