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幽霊

 1944年、春

 ドイツ占領下のフランス北西部の小村。
 
 「あっ!林檎の花が咲いてる!」
 とある晴れた日の午後。ひとりのドイツ兵が、真っ白な花を咲かせる林檎の木に走り寄った。
 「この枝を一本もらおう」枝をぽきりと折る。
 「きれいだな。もうこんな季節なのか」ドイツ兵がもうふたり現れて言った。
 林檎の花の枝を持っているドイツ兵はそわそわし出した。
 「どうしたんだよ。小便でもしたいのか?」ふたりはからかった。
 「違う!この花をあげたい女の子がいるんだ……」
 「女の子?このへんに女の子なんていたっけ?」
 「老人と子供とその母親ぐらいしか見かけないけどなぁ……どこで見たんだよパウル」
 「この林の向こうに家があるんだ」林檎の花を持ったドイツ兵……パウルが向こうを指さしながら言った。
 「この村の家はほとんどぼろぼろだけど、あの家は奇麗なんだ。石壁も全然崩れてないし、庭にはチューリップが咲いてた」

 ふたりのドイツ兵は首をかしげている。そんな家があったら目立つはずなんだがなぁ……しかも女の子もいるという。
 「いくつぐらいなんだ?その女の子ってのは」
 「17歳ぐらいかなぁ……いつも窓辺で何か縫物をしているんだ。黒髪の、おしとやかそうな子で……」
 ここで、パウルはもうあまりこのことには触れないことにした。こいつらが興味を持ち出したら困る。僕が先に見つけた子なんだから……。
 「ちょっと行ってくる」パウルは林の方に駆け出した。
 「おい……」ふたりが呼ぶ声がしたが、無視した。走りながら、髪を撫で付けた。顔が汚れていたりしないだろうか?

 手に持った林檎の花から良い香りがする。甘酸っぱい香りだ。林の緑は若々しい緑だ。黄金の日の光で木の幹が輝く。鳥の鳴き声がする。風はさわやかで、どことなく水のにおいがする。
 ……これで戦時中でなければ、平和な日常だというのに。いつアメリカ軍が上陸してくるかわからない、緊迫した日々だった。

 林の奥に家が見えてきた。ベージュの石造りの壁とこげ茶色の瓦の屋根が日の光に輝いている。庭には色とりどりのチューリップや、黄色い水仙が咲いている。まるでおとぎ話の世界だ。全てがきらめいている。

 そして、その庭を見下ろす開け放たれた窓辺には……あの子がいた。
 つややかな黒髪が肩にかかっている。ふっくらした頬は薔薇色だ。どんな春の花より美しくきらめいている……妖精のようだ。
 たいていの村人は痩せていたが、彼女は健康的に見える。えくぼの浮かぶ口元は常に微笑んでいる。

 パウルはこの女の子を心の中で「ダイアナ」と呼んでいた。妹の持っていた本「赤毛のアン」に出てくる、アンの親友の少女の名前だ。窓辺の少女はダイアナのイメージにぴったりだった……。
 ダイアナは、こちらに気づかない。口元に甘い微笑みを浮かべたダイアナは、庭の花をじっと見つめている。手には針を持ち、何かを縫っている途中らしいが、その手は止まっている。

 パウルは家に近づいた。ダイアナは気づかない。彼女はいつも気づかない。なぜだろう。恥ずかしがっているのか?それにしてはくつろいだ様子だ。
 「あの……」パウルは口ごもり、林檎の花を見つめた。そして、ダイアナの目の前の窓台に、花を置いた。
 そして、立ち去った。
 なぜだか、あの場所に長くいることが出来ない。庭の前にたたずむと、最初はうっとりするのだが、だんだんと居心地が悪くなる。
 なんだか、自分のいる世界とは、何かが違う気がして……。

 今までも色々な花を届けにきているのに、ダイアナは僕に気づかない……。
 パウルは仲間のもとに戻るため、林の中を歩いていた。
 さっきまで木々は黄金色の日の光に輝いていたのに、なんだかうっすらともやがかってきた。そして霧が出てきた。周囲が白くぼやけていく……。 

 1964年、春

 「ママ!ママ!」
 部屋の中で少女が悲鳴を上げる。
 「どうしたのよ」
 隣室にいた母親がやってくる。
 「ママ、またなのよ!また花が!」
 普段は薔薇色の少女の頬は青ざめている。窓の前に立ち、何かを指差している。豊かな黒髪が肩の上で波打っている。着ている淡い黄緑色のワンピースは白い小花柄だ。
 少女が震える手で指さしている先には、窓台に乗った美しい白い林檎の花の枝があった。
 「いつも気づかない間に置いてあるの!目の前に!忽然と現れるのよ!前はヒヤシンスだった……その前は赤い実のついた枝が……」

 まるで透明人間がそっと近づいて置いていったみたいに、忽然と花や木の実が現れるのだ。最初は誰かがいたずらをしているのだと思った。でも、そうだとしたら気づかないわけがない。彼女は日の当たる窓辺で庭を眺めながら縫物をするのが好きだった。誰かが近づいてきたらいくらなんでもわかるし、物音も全くしないのだ。
 危険な目に遭ったわけでもなく、ただ花が置いてあるだけなので、どうしようもない。その窓辺に近寄るのをやめるしかない。彼女の大好きな窓辺なのに……。

 「カミーユ、気にしすぎなんじゃない?あなたのことを好きな誰かがこっそり置いていくのよ、きっと」母親が言った。
 カミーユは大きくかぶりを振った。黒髪が揺れる。
 「違う!絶対誰もいなかった!まるで幽霊が置いていったみたいに……」
 「幽霊と言えば」母親が何かを思い出したように言った。
 「幽霊を見たって人が何人かいるのよ。この林の向こうで」
 「やめてよ!怖いわよ……」カミーユは腕をさすった。
 「数人の男の影のようなものが、林を歩いていたとか……」
 「やめて!聞きたくない!」
 「このあたりも戦時中は人がたくさん亡くなったみたいだからね。まだ私が嫁いで来る前の話だけど……。何が起きても変ではないわよ」
 カミーユはこわごわと窓の方を見た。あの花をどうしよう?

 1944(?)年

 パウルは霧に包まれていた。すぐ近くの木の輪郭がうっすら見えるだけで、あたりは真っ白だ。
 一体、ここがどこで、今がいつなのか、なにがなんだか分からなくなってきた。
 さっきダイアナに会ったことは覚えている。
 その前は?確か仲間ふたりとぶらついていた。そして林檎の木を見つけた。
 その前は何をしていたんだったっけ?というか、あのふたりの名前はなんだったっけ?確か、アルトゥールとイェルクじゃなかったけ?それともそれは別の奴の名前だったっけ?
 今日は何日?何曜日?というか今年は何年だったっけ?1944年で間違ってはいないっけ?

 「あ」
 パウルは思い出した。
 僕もアルトゥールもイェルクも他の仲間たちも、1944年の夏に死んでいるんだった。上陸してきたアメリカ軍に殺されたんだ。
 思い出した途端、霧が晴れてきた。
 1944年の春に戻ってきた。

 僕は死んだ。
 僕は死者だ。
 幽霊だ。

 「だからなんだと言うんだ?」

 死んだからといって他者を愛していけないというルールはない。
 ……ダイアナ。僕のダイアナ。美しい黒髪と薔薇色の頬のダイアナ。

 パウルは彼女に贈る花を探し始めた。
 1944年の春の中で。
 
 
 

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