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生きていくために描いている

「売るために描いているわけじゃないでしょ?」

絵を描いていると、時々、こんな言葉を投げかけられることがる。その返事は一言では表せなくて、私はいつも考えてしまう。半分は、その通りなのだけど、半分は違うのだ。あらゆるものが自分の色を出しながら、好き勝手やっているのに、なぜか不思議と戦わないで共存する、そんな世界を創りたくて、絵の中ならそれができる気がして、私は絵を描いている。生きとし生けるものの、生まれてから死ぬまで、その狭間にある日常を、喜びも絶望も丸ごと一枚の絵の中に表現したい。そうやって絵を描いている瞬間、そこには売れるとか、売れないとか、関係なく、ただ、ただ、色を重ねて、筆を動かしている。

のだけど…!

私はただ、描く、だけじゃ満足できないのだ。もちろん、自分の中にある表現欲は満たされる。たださ、自分が表現したい世界を描いているだけじゃ、何も生まれない気がして、それだけじゃ、私はなんだか、つまらないんだよね。自分自身は絵を描いてスッキリするかもしれないけど、それで終わりにしたくないのだ。絵を描いて、気持ちを整えて、別の方法で社会と繋がる、そんな生き方もあるかも知れない。だけど、私にとっては、「絵を描くこと」が一番、健やかに社会と繋がる方法だったのだ。

だから、私は割と、売るために、絵を描いている気がする。むしろ売れなかったら、絵なんて描いていない、とすら思う。単純にお金を稼ぎたいとか、売れると嬉しいとか、元々、売るプロセスが好き、とか色々、理由はある。売れることで承認欲求を満たしている部分も、そりゃぁ、もちろん、ある。(人間だもの!)でも、一番の理由は、社会と繋がりたいから、な気がする。そして、私はやっぱり誰かの役に立ちたい。

絵が売れるということは、たぶん、需要がある、ということなのだと思うのだ。まだまだ、駆け出しの私にはご祝儀需要とか、応援購入とか、そういうものを、たくさん、たくさん頂いているから、私の絵そのものに、どこまで需要がある定かではないのだけど…それでも!身近な人を応援する、ある意味、“推し事”的な需要を満たしているのかも知れないし、単なる私への寄付なのかも知れないけど、「何かにお金を払う」ということは、お金を払うことで「何かを満たす」とか、「何か課題を解決する」とか、そういう“誰かの役に立つ”部分を、ほんの少しでも担っている、ということなのかも知れない、と、感じている。(たぶんね。)

「絵があると元気になる」、「楽しい気持ちが生まれる」、「落ち込んだ時にエネルギーもらえる」、「なんか生命力が湧き上がる感じ」とか、嬉しいお言葉を頂くこともある。絵をコレクションしてくださった方のSNSなどに、自分の絵がチラリと映り込むと、その方の生活の一員にしていただいたようで、嬉しい気持ちになる。絵を飾るために、部屋を片付けた、と言ってくださった方もいる。展示して終わり、ではなくて、各々の絵が新しい場所でそれぞれの役割を果たしている、自分の手元を離れて、時に自分が想像していなかったカタチで誰かの生活の一部になっている。そうやって絵を使ってもらえたら、こんなに幸せなことはない。

「四季の絵が欲しい、掛け軸みたいに季節ごとに絵を変えてオフィスの玄関に飾りたくて」

展示会で頂いたオーダーをきっかけに、「そんな需要があるのか!」と、気付き、四季折々の自然から生まれたイメージを小さいサイズのキャンバスに描き始めたら、「小さいの一つずつ集めていきたい!」と別の方から言っていただき、「そんな需要もあるのか!」と、同じサイズで描き続けることにした四季シリーズは、気付いたら人気シリーズになっている。ただ、描きたくて描いていただけじゃ、そんな発想は生まれなかった。お客様と関わることで、新たな発想が生まれていく。需要を満たすために絵を描いているわけじゃないけど、自分の素直な表現で誰かの需要を満たせるなら、こんなに嬉しいことはない。だから、無邪気に描ける範囲内で需要に応えたい、と、素直に変化を楽しんでいる。

絵に留まらず、アートワークショップやコラボアクセサリー、音楽とのコラボなどで新しい人間関係が生まれるのも楽しい。個展をすることで、足を運んでくださった人同士が繋がれる、そんな場を作れるのも楽しい。絵は買わないけど、毎回やってきて人生相談してくれる人がいるのも、それまた嬉しい。この辺はだんだん、売り上げとか関係なくなってきてるかもだけど笑、絵を描くことを通して人と繋がるのが、私にとっては、一番、健やかに生きる方法なのかも知れない。(たぶんね。)


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3-5年後に家族で世界に飛び出します、たぶん◎