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ペシミズム 2

私は「実物」というものを知らない。目にするのは造花や絵画、紙芝居。だから放火や強盗なんでも有り。
人物月旦も必要なし。関わる人間はネット媒体を通じてのみである。
桜の幹でミンミン鳴くアブラゼミ。側には月見草。
つまりわからないのだ。
ひょっとこの面を被った芸術家。モラルを知らない現代っ子。

さて、先ほど「最近怖い夢ばかりみる」ということを話したが、その夢とは決して魑魅魍魎に追われる夢や殺人に遭うといった典型的な悪夢ではない。
私にはコンプレックスが数多くある。幾多のそれが混在するなかで、それは大まかに分けてある一つのものに起因する。
いわゆる「自己の本性」そのものだ。
わかりやすく説明すると、自分にとって最も恐怖感に襲われる瞬間とは公衆の面前でうっかり自己を露呈してしまう時なのだ。
惨敗。……いやいや間の悪い記憶を呼び起こしてしまった。人は生涯を通じてそう易々と変貌を遂げれるものではない。
アルプス山頂一面に降り積もった雪がようやく溶けかけた矢先に再び何倍にも増して降り積もったのだ。 せっかくの順風の兆しも「仕事せよ」の一言で台無し。
優越感に睨まれ、再びペシミスティックの影あり。模索も霧散。
病的な過敏症だと言いたいのだろう。陳腐である。面白くない。
「あなたの偏見すべてその幽棲にアリ」と得意げに俗人の高説唱える。
されど俺の苦労性、根源は社会が植え付けたと誰も知らぬ。子供の偏食を改善するに強制的な荒治療を施すのは逆効果。
「さすれば君は稚児同然という理屈になるがいかが?なるほど。どうりで精神の向上が見受けられないわけだ。」
と妙に納得。

生きることに未練があるのではなく、ただ漠然と死ぬ勇気がないのである。死を口にしたがる者ほどなかなか死なぬものだ。
そう言ってしまえば思案もさることながら行動にも実体が無いのかと唐突に突かれると反論の余地も無いので、ひとまずいつもの屁理屈で僅かながら取り繕った気分になったということにしておこう。
 
「この世から酒が渇れぬうちは死なないのである」
 
父親がたまに気紛れに買ってくるのと細々と小銭を貯めて買うのと…いずれも発泡酒なのだが、それを呑むことのみに生き甲斐を感じるのは決して大袈裟ではなく偽ざる事実なのだ。
「生きて在ることに理由はいらない」
それは生に対する悲しい諦めなのか。
しかし、例えば私は自分を必要とする者がもしこの世に存在するのであれば、すぐさま君のところへ飛んで行くに違いないという確信があるが、 これこそが混じりっけのない純然たる精神の持ち主にとっての生きる理由であり真実と捉えて然るべきではないだろうか。
人は他者と共有し合えるものがあってこそ過酷な人生をどうにか生きていけるのである。
すなわちニヒリストの私が「何故に生きる?」という問いかけに対して明確な解答を持ち合わせないのは至極当然なことなのだ。むやみに思考するのはヨセ。いや、それも無理なのだよ。蒼白なる者の思索は祈りだ。それは己の身を救わんがために備わっている生存本能なんだと思う。なんだ、要するにただの自己弁解か。
憐れなる哉モノ思う葦。悩めば悩むほど、語れば語るほど不格好になっていく。
こりゃ見ちゃいられねぇ、もう黙っていたら?

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