見出し画像

数学センスゼロ点満点の文系が、ITを好きな理由。

右を見ても、左を見ても、生きづらいご時世だ。
VRにAR、SEOにMEO、ブロックチェーンにNFT、CartGPTにBingにBard……。
日々刻々、聞いたことのないハイカラな言葉が暮らしに入り込んでくる。気がつけば、わけもわからない言葉が生活の一部になっていて、そのスピードに、なにがなにやら。ため息が止まらない。
でも実は、最近のITって、文系にむちゃくちゃやさしくなってきてると感じている。
文系でシニアに近づいてきたので学び直しを考え中で、「文系こそ、IT使ったらいいのに党」党首なんていう旗印を掲げる私が、自己紹介を兼ねて、文系の自分がIT好きな理由を語ってみるよ。


河竹黙阿弥は、ガス燈を見たときどう思った?

吾輩は、文系である。生まれながらの数学音痴で、バブルをうっすら知る非・デジタルネイティブ世代で、ここだけの話、高校生のときに数学ゼロ点とった私が、なぜか、いま、ITの仕事をしている。

ITについて文章を書いたり、動画を作ったり、Webコンテンツをより多くの人に見てもらうための作戦を練ったりしている。そのためにデータを見てアーダコーダ言ったりしている。
流れ流れて、気がつけば、こんなことになっている。

学生時代の友人は当然ながら文系で、家族もバリバリ文系なので、だれも、私がどんな仕事をしているのか理解していない。正確には、理解しようとしない。

「IT楽しいよ」「AI使うと便利だよ」
そんな風に話しかけても、ほとんどの場合、はじめて火を見たネアンデルタール人みたいなリアクションをとる。

こわいのだね。要するに。

思い出してみてほしい。
10年ぐらい前、私たちはガラケーだった。それが、いまや、老いも若きも、当たり前のようにスマートフォンを手にしている。
10代の保有率はほぼ100%、70代でも60%以上が所有する、21世紀人にとっての「火」=スマホ。
さらにさかのぼると、20年ぐらい前は、ダイヤルアップ通信が普通だった。それが今では、町じゅうでWi-Fiが飛びまわり、個人の家でも光通信が当たり前になっている。
「ちょんまげ頭」が「ざんぎり頭」に。
「駕籠(かご)」が「人力車」に。
まるで、文明開化ではないか。
戊辰戦争は? 無血開城は、いつあった?

幕末から明治を生きた歌舞伎の作者・河竹黙阿弥(かわたけ-もくあみ)は、明治になって歌舞伎にも近代化を求められたときに、時代と逆行して江戸の風俗で芝居を描き続けた人だ。
新しい時代に入っても、あえて懐古趣味に走った大黙阿弥。
作品はノスタルジィに満ちていたけれど、歌舞伎の小屋を明るく照らしたガス燈には目を細め、生まれてはじめて食べる牛鍋には舌鼓を打った。
そんなふうに想像している。

だって、未知のものに対する好奇心がなければ、おもしろい芝居なんて書けないですもの。
黙阿弥だって最新テクノロジーに心が動いた(はず)。
好奇心こそが世界を動かす。だから私は、ITが好き。


文系にとっての鬼門・ロジカル・シンキングの克服

文系の自分がIT好きな理由を、もう少し実用的な面から掘ってみたい。
ITの仕事をすることで得たものは、ロジカル・シンキングだ。
文章を書くには、論理的思考が不可欠。でも、私にはそれが欠落していた。
論理的思考がないと文章全体の構成が作れないし、文章そのものに説得力が生まれない。個々の一文がどれだけ流麗であっても、全体で見ると「わかりにくい文章」というレッテルを貼られる。
文系のなかには「感性」なるものを冠にいただいている人が少なくない。かくいう私も、そのひとりだった。
だからこそ、言いたい。
「感性」とは、ティンカーベルのようなもので、見える人にしか見えない。はかない存在なので、取り扱いは要注意だ。
というわけで、論理的思考なるものをずっと手にいれたくて、たくさん本を買った。んが、苦手意識が邪魔をして積読するだけで読まなかった。

それが、ITの仕事をするようになってから、自然と身につくようになったのだ。
ITサービス(プログラミング)というのは論理を積み上げて作るので、ティンカーベルの付け入るスキがない。そうした環境に強制的に身をおくことで、私のロジカル・シンキングは育まれ、結果として文章力(文系力)も向上した。
よく「関数なんか勉強しても、なんの役にも立たない」という文系母の決まり文句がある(私はそうやって育てられた)。
だけど、数字は自分を客観視するためのツールなのだと腑に落ちたとき、私は、ITが好きになった。

文系にやさしいIT(1)生成系AI

ここからは、「最近のITは文系にやさしい」という話をしたい。
たとえば、世の中をにぎわせている生成系AI。
noteを見回しただけでも、「AIこんなふうに活用しています~」てな記事がたくさん出回っている。横須賀市のデータによると、生成系AIを使ったことのある約70%の人が、もいっかい使いたいと答えているそうだ。

chat GPTとか、Bingとか、Bardとか名前が違うのは、提供している企業が違うからだ。たとえるならキリンとか、サントリーとか、アサヒとか、ビールメーカーの違いと同じで、名前は違えど、呼べば答えるAIであることに変わりはない。
どのメーカーのビールであっても注ぐと泡が出るように、どのAIも質問すると答えてくれる。
どうやって質問するかといえば、言葉で説明するのだ。
とくべつな言葉は必要ない。「プロンプト」などと大上段に構えなくても、「◯◯教えて」てな感じでフレンドリーにたずねても、それなりに答えを返してくれる。
最近、私がハマってる絵を描くAI、DALL-E(ダリー)にいたっては、どんな絵を書いてほしいかを文章で説明するのだ。
「文字」で「絵を描いてもらう」。このからくり、すごくない?

生成系AI


文系にやさしいIT(2)ノーコード

あるいは、最近増えているノーコードのWebサービス。こちらも、文系にとってやさしすぎるサービスだ。
これまでWebの世界では「Web上のサービスはすべてコードでできていて、コードを組み立てるプログラミングを理解できないと、Webサービスを作ることはできない」と、されていた。
そんななか登場したノーコードのWebサービスは、文字通りコードなんて知らなくても、アプリなどを組み合わせることで、そこそこ素敵なWebサービスを作ることができる。
たとえば「平均年齢63歳の会社でもデジタル化できました」というアレ
ノーコードは、もともとはエンジニア不足を解消するために開発された技術ぽいが、いまや副業界隈で人気になっているホットワード。
気になる人は「ノーコード 副業」で検索。

「文系がITを好きな理由」まとめ

ということで、どんなすごいテクノロジーも、そのベースにあるのは黙阿弥がもっていたのと同じ「好奇心」だと思う私は、やっぱり生粋の文系。

#ウェルビーイングのために

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?