猫ちゃん大好きブログその10「盛夏火と宮﨑企画」


こんにちは。
皆さまいかがお過ごしでしょうか。
猫ちゃん大好きブログ書いてます、金子鈴幸です。
今週は二つ演劇を観ました。
盛夏火「アバンダンド・ネバーランド」
宮崎企画「忘れる滝の家」
二つとも面白かったです。

盛夏火は旗揚げから観ていますが、今回のは一番完成度が高かった気がします。

最近「花束みたいな恋をした」で、「もうサブカル固有名詞で騒ぐのやめようぜ」みたいな気分になり、
「エヴァ」で「もうサブカル目線で考察とかすんのやめようぜ」(考察とかすんならちゃんと勉強しようぜ)
みたいな気分になり、
人生の大半を、サブカル固有名詞を叫んだり、ゼロ年代批評的な関係妄想的目線で物事を繋げて考察して浅い語りをすることで過ごしてきた身としては、どう生きていいか分からなくなっている今日この頃ですが。

そういう身としてはあまりサブカルネタで笑えなくなってきてる自分に、「そういうのをアップデートって言うんですか!?」と問いたくなったり、「オカルト」で見せる陰謀論的展開とか、今の政治状況とか見ると正直苦しいと思いつつ、「USOジャパン」とか「アンビリバボー」に熱狂していたあの頃のワクワクをくすぐられノスタルジーに浸ったりとか。
「そういえば次の公演はサブカル固有名詞で若者がキャッキャやる演劇だな」と青ざめたり、(いつもそんな感じですが)色んなことを考えました。

しかしまぁ、純粋に完成度が高かったのが、何より救いで、物を作る人間としては(未だに自分から言うの恥ずかしい)希望はそこにしかないのだと、ただ「次のオモシロは何か」だけをシンプルに考えて実践するしかないのだと、そのように生きるしかないのだと思いました。
ちょっと抽象的で何のことだという話ですが。

いつもだったら中盤あたりに訪れる「やっぱそれだよな!」な熱いバカ展開がクライマックスで一瞬だけ、というのは、なんか成熟を感じました。

私も大人にならねば、と思いました。もうすぐ30だし。まずは確定申告をしたいと思います。

宮崎企画「忘れる滝の家」

観る前から、「難しい」とか「挑戦的」とかいう感想がチラホラ見受けられたので、けっこう構えて行ったのですが、物語がしっかりあるし、メインとなる二つの物語「2019年の物語(ジャームッシュ風のシュールな青春ロードムービー?)」と「1980年の物語(小津映画を下敷きにしたような世界観)」の相関関係はわからなくてもよいっぽかったので、すんなり観れました。後半どんどんリアリティラインを逸脱して、銃が出てきたり、カーチェイスしたり、異空間に行ったり、という、書くとド派手だけどかなりオフビートに表現されるぶっ飛び展開がクールでした。

映画観てる時もなのですが、「アクション映画」の派手なアクションを観るよりも「サスペンス映画」でチラッと地味〜なアクションを観るほうが好きなので、かなり好みでした。

しかしこの「二つの物語」の在り方が、「演劇的」というより、どちらかと言うと「映画的」なのではないか、と言う気がしました。それが良いのか悪いのかは分かりませんが。

一見関係がないようなことを関係がある風に繋いで「見せる」のが一番得意なメディアが映画ですが、その映画の特質を、演劇が唯一持っている「観客が集まって観ることの特質性」(当パンにそれは「観客のまなざし」とされていたような気がしますが)に置換しているように見えた、というか。

前述の通りそれが良いのか悪いのか分かりません。

ただ今後、この「映画っぽさ」がどのように進化、あるいは変化していくのか、注目したいところです。

さて、今日はこの辺にしたいと思います。
なんかちょっと前からラジオの書き起こしっぽくなってる気がするのですが。
このブログはそういう文体で行く、と確立されたということでしょうか。


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