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処暑;第41候・天地始粛(てんちはじめてさむし)

毎月一日、早い時間からの現場や出張がなければ、氏神様での月次(つきなみ)祭に参列させていただく。

祝詞を聞きながら拝殿で傅いていると、社叢の欅や楠の樹立ち高く響き渡っていた蝉時雨も盛りを過ぎ、熱気もようように落ち着いたようで、拝殿に送られてくる風に「天地始粛(てんちはじめてさむし)」を実感した。

「さむ」は「冷める」ことであるが、覚める、醒める、褪めるなどと同根であるとされる(『字統』)。であるから、熱かったものがいくらか冷めたとても微妙なところも伝えるのだろう。眠りから覚めて何かが「明らか」になっていく。国語の「あき」はそんな語感も持っているのだろう。秋深くなると実りを終えたものみな色褪せていく。

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拝殿に座って感じたその涼やかな空気は、凛として厳粛だった。世は確かに秋になっていた。蝉の鳴き声は地面近くを漂って、境内を歩くと地面の穴ぼこは崩れたものが多く、枝には空蝉がずり落ちそうにぶら下がり、石段には彼らのなきがらが折り重なっている。姦しい楽は夕方には興梠や青松虫に引き継がれ、秋を深め、夜を一層濃くする。

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秋はそれまでの夏のまとわりつくような空気が、すっと離れて、気がつくと夏は既によそよそしい。その微かな気配を暦は伝える。粛然と粛々と季節は運行するのである。


自粛が続く。

生命の営みは、本来粛々と続くもの。自分の中と外に満たされている光と風を愛で、それらと対話し、厳粛な彼らと一緒に振る舞い、時には粛然とし、笑ったり涙を流したりしながら、変容していく自分とともに楽しんでいくことが「自粛」である。

「粛」は物を聖化するための筆と規(コンパスのような道具)、文様を描くための大事な道具二つを合わせた文字だという。

時間というバーチャルなものに支配されてきたものたちが、ふと気がついた真っ白い面。余白。隙間。そのtabula rasaに描き出される新たな風景に気がつくだろうか。目を凝らして、生まれたてのその線を、色を、形を、なぞってみよう。渡る風信を聞き、半身をそちらに添い合わせよう。

そうすれば、「コロナ」は本来の意味である光冠、或いは花冠として、それぞれの頭で輝くかもしれない。

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