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まなかい;霜降 54候 蔦始黄(つたはじめてきばむ)

 数年前までは「信濃デッサン館」という名だった。今は「残照館」と名前が変わったが、僕には「デッサン館」が馴染みがある。夭折した画家や詩人らのデッサンを主に収蔵していた。デッサンは素描、「そ」は粗や祖にも通じ、粗いけど、始まりでもあり、素「もと」でもある。その名の通り、彼らの生きた痕跡がザッと光陰の矢のように明滅している。もちろんデッサンばかりではないが、村山槐多、松本竣介、関根正二、野田英夫、小熊秀雄、戸張孤雁などの作品が息づいていた。

  建物もシンプルで好きだった。館長は窪島誠一郎さん。館長さんは建物をゴキブリホイホイと呼んでみたりしているけれど、土地に馴染んだ、風景と収蔵作品への敬愛が感じられる佇まいだと思う。

 僕は大学卒業して故郷に戻った頃、一夏の間だけ、こちらでアルバイトをさせていただいたことがある。学生の時、卒業レポートを書き上げたばかりの僕は、帰省の折、話を聞いていただこうと飛び込んだ。どうして館長さんに、だったのか。直感でとしか言いようがない。でもあの時、バブルとオリンピックでズタズタにされていく子供ながらに好きだった雑木林や野原や川の豊かな場所をどうにかしないと、記憶が途絶えてしまうという思いを、小さな館長室の畳に座って聞き届けてもらったことは、ずっと胸の奥で光となっているのだ。

  久しぶりに訪ねてお目にかかった。僕はその前に長い手紙を書いていたが、どんなことを書いたか、うろ覚えだった。何となく、胸がいっぱいだった。忙しい時間を割いて貰ったのに、いい話し相手にはならなかった。

信濃デッサン館を「残照館」として再出発させたこと、見知らぬ土地で約40年、隣の山に戦没慰霊美術館「無言館」も、「傷ついた画布のドーム」もつくった。でっち上げた、という言葉を使っていたが、その人にとって大切なことにその場やものがあることで気がつけたなら、その人にとってリアルなものとなる。何かの力が今を生きている誰かに働きかけ、受け取る人がいる。こうしてこの世に立ち現れなければ、だれも知らずに風化していく記憶。大切にしたいものやことが残されていくのは尊い仕事だと思う。

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「無言館」は十字架の形をしている。慰霊の祈りの墓標である。デザインには様々な意味が後付けでできるだろうが、これは北を指す羅針盤でもあり、方舟でもあり、廟でもある。十字がクロスする天井には天窓が設けられ、光が落ちてくる。光の差し込む床は少しだけ盛り上がって。そこはお臍だ。土偶のお腹のように、ここは地母神である母の胎内と天をつなぐ場所なのだろう。戦争で散った命の再生が象られているのだろう。


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秋の光のせいか、薄いヴェールが掛けられ、皮膜の向こうに戦争で亡くなった画学生の魂が揺らいで。琉球の古い家屋のように正面に壁が立って、左右どちらかの扉を押して館内へ入る。

 戦争をもうしない、という誓いだけ。

残された戦地からの手紙や、絵を描く道具、そして途中で描くのをやめざるをえず、時間が止まったままの作品に触れる。想いが梢や鳥の鳴き声や光とともに拡散している。

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かつての修験の山、独鈷山に抱かれた「傷ついた画布のドーム」は、達磨さん、トルソのデッサン、花、風景、家族など、戦没画学生たちの描いた数々の習作が、かまぼこ型の天井いっぱいに貼られている。天井画が、無名の芸術家の卵たちの絵で満たされている。宗教を超えた多様なあらゆる生命が調和するユートピックな祈りが感じられ、天空から見守っている。かつて生きたものたちの、残念を、喜びを、痛みをともに感じ、そこからまた始まる世界を。

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全て仮のもの。未完。そらごと。だからこそ、人の数だけ、いろんな結びとなる。無数の鍵穴にあう鍵をみんなが持っている。長崎の教会群にも似た建築群、東信濃の里山で聖地が今も息づいている。聖地はあらゆる命が生き生きと息をしている場所。時に拳を握り、歯軋りしても、結んだら開いて、ほどけて混ざり合って、ゆだねていける。

館長さんは「ふわっと生きよう ふわっと」と言葉をかけてくれた。


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カズオ・イシグロ『日の名残り』を読んだ次の日、残照館、秋の終わり、戦争も、水俣病も、3・11もコロナも超えて、なみだふる。再生に花を立て祀る。コロナは花冠、あるいは光冠を意味する。

(写真はいずれもshinichi tsukada;カメラは sigma fp)

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