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処暑;第42候・禾乃登(こくものすなわちみのる)

みのり と いのり 不可分のペアのことば。

「いのり」は「準備」で「みのり」は「成果」。準備(いのり)に既に成果(みのり)があって、成果(みのり)の中に準備(いのり)があるという。(『面影日本 日本の本来と将来のために』 構成;松岡正剛 より)

居つく、斎く、禊して、じっと何かの音信を待つ姿。そうして聖なる言葉を伝える(「宣る」)のが「い のり」 。戒め、忌み籠りの「い」に「のる」がつく。何か願うには、潔斎(みそぎ)が必要。くすんだままでは、訪れはない。神社にも手水舎が必ずあるし、露地にも手水鉢がある。祭りには必ず潔斎の期間がある。節供では撫でものなどの形代(人形)で汚れを祓う。

「いめ」は夢の古語、時と場を計らって、斎戒しての夢告を大事にした。意識の向こうに広がる風景に飛び込むには夢見の場がいる。


祭りや予祝などの儀礼には、動かない「静の型」と、動く「動の型」がある。双方で時空を生み出し、ゼロの時間、原初の時空が立ち上がる。花はそこで立てられることが多い。花(常盤木のそれも同じ)は仮の宿になる。場が立って、そこで初めて御霊やかみ様に言の葉を伝える。

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「みのり」をもたらしてくれる霊威がある。稲作ならば「稲魂」、他の作物にもきっとあるはずだ。林檎にも、茄子にも、らっきょうにも、菊にも、カカオにも、なんにだってあるはずだ。そんなあらゆる恵みをもたらしてくれる様々な「かみ」を祭り、「たま」や「かみ」とともに遊ぶ。

荒ぶっているようならどうにかなだめて、和御霊(にぎみたま)になってもらうのだろう。

一緒に遊び、みのりまでの道のりを擬いて遊ぶのが「予祝」と言われる行事。

田遊びや、秋祭り、考えてみればいわゆる五節供やお月見などの雑節も、広く四季の運行の恙きことを予祝することでもある。お花見もまさにそれ。

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「みのり」は「稔り」「実り」「農(みのり」

「み」は満ちるの「み」、美の「み」、深雪の「み」、なんにせよ満ちること、それが深いこと、そして「御霊」の「み」のように尊いものでもある。


いのりとみのりは一対で、結ばれ解かれ

「つぎつぎとなりゆくいきほひ」の連環を生み出していく。(同上記冊子より)


stay homeは stayだからじっとしていること。

果たして「いのり」の時間になっただろうか。

「いのり」は頭ですることが多いのではないだろうか。時期もよくわからない。時期は自然の動きや巡り、風景、気象や月などを見て決めていた。他者に委ね、それらと相互浸透するために、身体という場を空けることが必要だった。

いのりの場と方法を喪失していることが多い。その方法の片方は「動く型」だから身体がともなう。頭より体を使って、動くことで、身体記憶は流れ出す。細胞が本当は知っている。

その身で持って大地に、森に、土に分け入って、動く型を思い出していかなければ、みのりだけつまみ喰いすることになる。ものの記憶を喪失したままサスティナブルをうたっても無理な話だろう。

いのりのないみのりはない。

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共同でやる大きなお祭りはこの秋ほとんど見られない。(写真は数年前の氏神様である赤坂氷川神社のお祭り)


小さな祭りをそれぞれがして、みのりの夢を神々とともに見ること。

和魂(にぎみたま)による 捗々しいみのりを 願い、多くは古式にのっとれず、日時も儀礼も略式が多い今、それすらも開かれえない今年の情勢では、それぞれがそれぞれの誠をもって、祈るしかない。


夢中になって一つになる。

そのための技術がある。好きになること。恋することだ。素直に喜ぶことだ。小さな時間を寿ぐこと。世界の片隅に些細な音や、きらめきや、喪失に慄然とし、失望を香ばしく感じること。

植物が大気に葉を差し伸ばし、相互浸透し、混ざり合っているように、遍在するものと混じり合うこと。


いのり、もたらされたみのりがあれば、感謝をして、きちんと送って、また来てくださいと祈るのだ。

僕たちの小さないのりだって、時や花々や星を動かしていける。

いつだって彼らは光速でやってきてくれる。

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