【第236回】『復讐 運命の訪問者』(黒沢清/1997)
黒沢は『勝手にしやがれ!!』シリーズで、プログラム・ピクチュアの定型に挑戦し、見事に成功を収めた。ケイエスエスとツインズ双方から、再び哀川翔を主演に起用し、新シリーズの企画が持ち上がる。『勝手にしやがれ!!』シリーズでは主人公たちはヤクザではないということが唯一の約束事として存在した。つまり敵役や相手役がどんなに怖いヤクザや暴力団であろうが、雄次と耕作は常に丸腰で反撃する術を持たない。そこで敵役のヤクザはみんな頭がバカで、どこか抜けているという脚本上の設定を各人に課すことになった。この主人公たちが銃を持たないという制約は、簡単なようでなかなか難しい。大概のアクション・シーンは銃撃戦のない単なる追いかけっこになり、Vシネマの雰囲気を超えて喜劇的な雰囲気を帯びていた。
それでもシリーズのラストになったパート5、パート6の頃には、黒沢の銃を撃ちたい願望が日に日に高まっていったのは誰の目にも明らかである。パート5となった『成金計画』では冒頭、立体駐車場の中でヘロインをめぐる激しい銃撃戦が起こる。2つの対立する組織は相撃ちとなり、血だらけになった諏訪太朗が鈴木早智子に大量のヘロインを託し、死んでいく。このようにあくまで哀川翔と前田耕陽が巻き込まれない銃撃戦であればアリだったのだ。『英雄計画』のラスト・シーンはもう少し観念的であり、彼らが籠城する廃工場の中に発煙筒がたかれ、煙の中を2人は意気揚々と出て行く。警察の撃った弾が彼らに命中した場面はついに描かれないまま、エンドロールを迎えるのである。
黒沢にとってVシネマを撮るということは、銃撃戦を含むアクション映画とイコールであった。彼は最初から銃撃戦がやりたくてVシネマの依頼を受けたに違いない。北野武や石井隆のアクションにより、日本映画で激しい撃ち合いをすることの免疫は、観客の間で既に出来上がっていた。そこに満を持して、日常の中に暴力が入り込む映画として『復讐』シリーズを企画する。
それとは別にこの頃の黒沢清の中にはある思いが芽生えていた。青山真治や篠崎誠ら後輩の台頭である。『勝手にしやがれ!!』シリーズのパート2まで黒沢の助監督を務めた青山真治の『Helpless』がトリノやトロント国際映画祭で絶賛され、『地獄の警備員』で裏方スタッフだった篠崎誠の『おかえり』はベルリン国際映画祭の最優秀新人監督賞を受賞する。きっと自分と同じようにVシネマに参入し、同じような目線で映画を撮り続けるだろうとタカをくくっていた後輩の台頭が、黒沢に与えた影響は計り知れない。自分も世界市場に打って出たいという欲求が『復讐』シリーズ4部作と、その間に入った『CURE』からはありありと感じ取れるのである。
幼少期、父親の借金のカタに両親と姉を皆殺しにされ、ただ一人生き残った安城伍郎(哀川翔)は覚醒剤捜査担当の刑事として働いている。あるシャブ中の男を追跡していた安城は、その過程で男を自殺に追い込んでしまった。男の遺体確認のために現われた身元引受人・宮地茂治(清水大敬)こそ、あの時自分を見逃した犯人であると安城は一瞬で気付いてしまう。家族を殺害したのは、茂治の弟・知治(六平直政)だった。安城の復讐が静かに幕を開ける。
この『復讐』シリーズにおいても、1ヶ月2本撮りのスケジュールは変わらない。最初の2週間で脚本を外注したパート1を撮り、残りの2週間で自分が書いた脚本でパート2を撮る。黒沢は暴力描写を撮るに際し、適任者として高橋洋を指名する。高橋洋の脚本の特徴というのは、あまりにも陰惨で、徹底して救いのない物語である。黒沢自身が上がってきた脚本を見て「何もここまで」と思うような暗い仕上がりだった。人物造形はアメリカのB級映画のような暗さを持った人物たちである。本当は怖がりで、緊張すると思わず手のひらを額に当てる癖を持つ清水大敬(のちに『トウキョウソナタ』ではその身振りがそのまま役所広司にも導入される)、暴力に一切の感情を持たず、躊躇しない六平直政、彼ら兄弟の姉にも関わらず、彼らと婚姻を結んだ足の不自由な由良よしこ。この異様な家族のキャラクター設定は明らかに『悪魔のいけにえ』のレザーフェース一家そのものである。由良よしこの人物造形を更に強調したキャラクターが『蛇の道』ではコメットさんへと変遷していく。
彼らは表向きはクリーニング屋を営みながら、慈善事業として刑務所から出所した連中の保護司を務めている。だがその裏の顔は殺し屋代行業者として、暴力団ともつながりのある闇組織だった。刑事として何度か宮地家を揺さぶる安城の姿に怯えた一家は、安城の妻を誘拐し、殺害するのだった。
黒沢は今作から何の変哲もない家屋を事件の舞台に設定する。安城の住むマンションの部屋、麻薬で捜査に入ったアパート、それらはこれまで黒沢があえて避けていたごく普通の空間だった。思えば『勝手にしやがれ!!』シリーズでは、浅草や南千住をロケーションとして利用し、下町の哀愁溢れる風景を自分の物語の背景に宿していた。だが今作では、もはや何の変哲もない普通の住宅街の中で、殺しは起きるのである。
妻を助けるために、警察に辞表を提出し、クリーニング屋へ向かった安城と知治の互いに撃たれない銃撃戦は、イエジー・カワレロヴィッチの『影』への実に堂々としたオマージュに他ならない。彼らの放つ弾は決して互いの肉体に当たることなく、その隙をついて知治はクリーニング屋から逃げる。しばらくその場に立ち尽くす安城だったが、彼の復讐のための追跡は次第にエスカレートしていく。
クライマックス・シーンの二段構えの銃撃戦が素晴らしい。最初の港付近の施設での銃撃戦を長回しで据えた外からの構図と、開け放たれた3つのドアが、アクションの装置として実に良い。彼らは施設内に逃げ込むが、一人ずつ安城に撃ち殺されていく。ここで黒沢は執拗に長回しのアクションにこだわっている。ある意味、この映像でOKが出たことは、ツインズとケイエスエス双方に黒沢清への余程の信頼があったと受け取れる。
その後、田舎の屋敷へと逃げた知治たちだったが、ここにも安城が追い込みをかける。施設での銃撃戦とは打って変わり、対象たちは見えないところに隠れ、主人公を狙う。静寂の中での攻防である。木の影から主人公を狙った由良よしこの散弾銃も、彼の胸に入った防弾チョッキの前にはほとんど意味をなさない。茂治は皮肉にも幼少期の安城少年と同じように、押入れの中に身を潜めるが、そんなことをしても安城の心に逃がす気などさらさらない。彼はあの時のように命乞いする茂治を躊躇なく殺す。
ラスト・シーンでの銃撃は物々しいアクションになると思われたが、構図も何もかもが実に様式的であり、非現実的アクションとして存在する。彼らは虚ろな目をしながら、互いに銃を向け、躊躇なく引き金を引く。一発で勝負はついたかのように見えたが、どういうわけか一人が起き上がり、トドメの発砲をするのである。復讐を終えた哀川翔の表情はどこまでも暗く、陰惨に見えて仕方ない。哀川には銃撃戦後の爽快感や復讐を終えた安堵感などはどこにもない。ただそこには鉛の弾を撃つものの言いようもない怒りと悲しみだけが、彼の凶弾に倒れた屍とともに無残にも横たわるのである。
黒沢は今作と続く『消えない傷痕』を2本同時に撮った後、『CURE』を撮る。底抜けに明るかった『勝手にしやがれ!!』の後半から、少しずつ暗い方向へ進み始めた黒沢の表現欲求は、幸福だったプログラム・ピクチュアの解体へと急進的に向かっていく。今作はその重大な分岐点に存在する暴力映画である。