【第257回】『贖罪 くまの兄妹』(黒沢清/2012)

 『贖罪』シリーズは『トウキョウソナタ』同様に、これまでの男性主体の世界から女性主体への世界へ一気に舵を切った作品だったというのは前回も述べたが、5作中、最も黒沢の持っているこれまでの世界観に近かったのがこの第3話である。冒頭、小泉今日子はどこかの建物へと入り、階段をのぼっている。そこで嶋田久作に挨拶をしたことから、警察の内部には見えないこの建物が、警察なのだとわかるのである。そこには仕切りのない不思議な空間があり、隅っこに女性がうずくまっている。明らかに猟奇ミステリーのような不穏さを湛えた導入部分である。

女は母親に贖罪を果たしましたと涙ながらに訴える。そこから安藤サクラの回想が始まる。第1話、第2話においては過去の回想シーンに冒頭の10分間を割いていた。第2話はもう少し省略しても良かった気もするが、第1話で描けなかったバラバラになった後の4人の行動を時系列で描写しながら時間は現在へと移り、そこから現在から未来への物語がスタートしていく。今作では冒頭の場面のみが現在であり、あとは過去の回想という変わった構成である。

自分に自信の持てない晶子(安藤サクラ)は、自分がエミリちゃんと仲良くしたためにエミリちゃんが殺されたと思い込み、劣等感を抱えたまま家に引きこもる生活を続けていた。そんな中、東京で生活していた兄の幸司(加瀬亮)が、突然妻とその連れ子の若葉を連れて実家に戻ってくる。小学生の若葉と徐々に打ち解ける晶子だったが、兄・幸司の若葉に対する不可解な行動に、徐々に精神のバランスを失い始める。

第1話と第2話の主人公はそれぞれ社会へと出ていたが、今作では事件のショックから引きこもりになってしまったヒロインが登場する。晶子の父に諏訪太朗、晶子の母役に高橋ひとみを起用し、『ニンゲン合格』や『トウキョウソナタ』のようなバラバラになっていく家族の姿を黒沢は描写する。幼少期の兄は井之脇海が演じ、大人になり加瀬亮となった兄だけがこの家を出て、幸せに暮らしているのである。

ある日、結婚の約束をして家に帰ってくると言う兄を家族は待ちわびるが、若妻と連れ後となる娘を伴っての久しぶりの帰宅だった。その時の父母の戸惑いは想像に難くない。食卓の場面はどこかギクシャクした様子に見え、食後も話が弾むこともなく、父親は新聞を読んでいたり、家族はみんなテレビの画面に集中している。ファミリー・ドラマというジャンルの定型は家族の囲む食卓の描写がほとんど全てなのだが、『ニンゲン合格』や『トウキョウソナタ』同様に、この家の食卓もどこかいびつに見えて仕方ない。

後半の描写は、徐々に黒沢色が強まっている。まずは加瀬亮のインターネット会社の内部がまんま廃工場のような雰囲気を醸し出しているし、その暗く殺風景な内部が兄貴の心の荒廃振りを伝えているかのようである。娘と打ち解けた安藤サクラの後ろで段ボールを一つ一つ潰していく様子に見える暴力性は、まるで『蜘蛛の瞳』における岩松(ダンカン)そのものである。娘はその様子に怯え、明らかに父親の身振り手振りにいちいち怯えていて、安藤サクラも父親と娘との距離に徐々に気付いていく。

その夜の光景はまるでホラー映画のようである。殺風景な廃屋の中で、天井からぶら下げた半透明カーテンが風にたなびいており、スーパーのポリ袋が風に舞っている。明らかに幽霊が出て来てもおかしくない雰囲気の中で、柱にくくりつけたバネ状のプレスで加瀬亮が筋トレをする場面は、尋常ではない男の暴力性を内に秘めているのである。

クライマックス以上に、一度衝動的に暴力を振るいそうになるのを安藤サクラが堪える場面が素晴らしい。停車した車の中から娘が道路を挟んだ奥にある自動販売機へと足を進める。やっぱりコーヒーにしようと娘のところに走る兄の姿を見て、安藤サクラはある衝動的な殺意を持ってそこへ向かうのだが、一旦は思い留まるのである。

黒沢映画において、男はいったい何をして生活しているのかわからないことがある。その意味では、今作における兄貴も父親にお金を借りに来てはいるものの、『蜘蛛の瞳』における岩松(ダンカン)や一連の作品における菅田俊のように何をしているのかさっぱりわからないのである。途中、車内の場面で兄貴が「あのまま家にいたらどうなっていたかわからない」という台詞がある。口うるさい母親の元で、いっさいの希望を持てないまま幽閉されたように暮らす妹に対し、兄はまんまと家を出て、自由を謳歌しているのであるが、そのことがきっかけとなり、家族のバランスは崩壊へと向かっていく。

相変わらず実に堂々としたまやかしに満ちているスクリーン・プロセスによるドライブ・シーンが素晴らしい。むしろ食卓の会話よりも、車中の会話の中にこそ兄妹の決定的な亀裂へとつながるやりとりが含まれているとさえ思う。『CURE』で開眼した空を飛んでいるかのように見える車のさりげない映像演出にはニヤリとさせられた。

ラスト・シーンの罵り合いの場面はこれまでの黒沢映画においてはなかなか観ることが出来なかった異色の光景である。白い空間の中で、エミリの死につながる重要な証言が聞けるのではないかと内心期待して接見した母親の期待と、贖罪を果たしたと勝手に思い込んでいる晶子の思いとが打ち解け合うこともなく、互いの罵り合いへとつながっていく。ラストの金切り声は安藤サクラにしか出来ない魅力をスクリーンに放射していた。黒沢も今シリーズで最も女優魂を見せた人物として、安藤サクラの名前を真っ先に挙げている。

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