【第477回】『ヒメアノ~ル』(吉田恵輔/2016)

 ガラスを外側から拭くクローズ・アップ・ショット。25歳のフリーター岡田進(濱田岳)の仕事はビル清掃業。外側の窓ガラスを一通り綺麗にした男は、誤って土足でモルタルの床を踏みつける。コンビを組むリーダー格の安藤勇次(ムロツヨシ)は半ば呆れながら苦笑する。ただでさえ工期が遅れているのにと、嫌味ったらしい所長(大竹まこと)の説教を聞き流す2人の姿。先輩である安藤が岡田を遮るように前に立ち、一応の謝罪の素振りは見せる。地方から東京に上京して数年、岡田は特に明確な夢や目標もなく、やりたいことも見つからない。ごく平凡な冴えない人生。岡田の愚痴に安藤は「俺は毎日恋をしているよ」と笑顔で話し、彼をとあるカフェに誘う。店の真ん中に陣取った2人。岡田はキョロキョロと視線を走らせる。その先に見えた1人の小柄なカフェ店員の姿、シャツにパンツにエプロン、全身黒で統一された清潔感のある着こなし、穏やかな笑顔で客のコップに水を注ぐ天使のような姿。それと同時に岡田はオープンテラスに座り、店員の姿を真っ直ぐに見つめる視線に気付く。こうして岡田は高校時代に同級生だった森田正一(森田剛)と運命的な再会を果たす。だが森田の行動はどこかよそよそしい。「いま見てたでしょ?」「見てない見てない」「何度も来てるでしょ?」「初めて初めて」森田は同じ言葉を二度繰り返し、いとも簡単に嘘をつく。そのまったく悪びれない姿に妙な胸騒ぎを覚える。カフェ店員阿部ユカ(佐津川愛美)の厳しく刺すような眼差し。女は今日もストーカーの恐怖に怯えている。

子猫のようなファム・ファタールに群がる3人の男たち。前半の濱田岳とムロツヨシの二人芝居のような軽妙さが可笑しい。一向にテンポ・アップしない微熱のような物語、若者たちの淡々とした日常の切り取り方、目線。ユカと岡田の付かず離れずのロマンス、安藤への配慮。岡田は極めて紳士的な当たり障りのない関係を築こうとするが、ユカの強引な思いが3すくみの構図を一瞬で崩壊させる。ユカの住むアパートに付いた明かり。中から漏れる激しい喘ぎ声。それを呆然と立ち尽くすように見つめる森田の姿から、サイコキラーの恐怖へと転じる中盤の圧倒的展開は、今年の邦画史上No.1と言っても過言ではない。殺伐とした中に灯るタイトルのタイポグラフィ、あまりにも遅過ぎたが、最高と云うより他ない俳優のクレジット、郊外の夜の闇を描いた夜景撮影の素晴らしさ。静から動へ、明から暗へ、ひりつくような怒りの表情がまるで森田の激情と呼応し、一切の情を断ち切った暴力のループが始まる。序盤の吉田恵輔のこれまでの作品である『純喫茶磯辺』や『さんかく』のような温厚にフィックスされたカメラによる登場人物たちのクローズアップ多用の切り取り方は、ハート・ウォーミングなホーム・ドラマへと観客をあえてミスリードさせる。中盤以降、まるで人格が変わったように苛烈に動き回るハンディカムのめまぐるしい動きが凄い。吉田恵輔は主人公森田同様に、二重人格的な粗暴さを隠そうとしない。

若者たちの無軌道な暴力というモチーフ自体は、どうしたって真利子哲也監督の『ディストラクション・ベイビーズ』と明らかな同時代性が見えるものの、今作と『ディストラクション・ベイビーズ』の決定的な違いは、そこで繰り広げられる暴力が、ただの暴力か殺人かである。『ディストラクション・ベイビーズ』では主人公が殴ること以上に、殴られる喜びに半ば狂信的に固執する。だが菅田将暉が狡猾に女を蹴り上げるのに対し、主人公は徹底して女・子供・老人は無視し、ひたすら強そうな奴に挑んでいく。マウント状態でタコ殴りにすると、やがて外部から誰かが止めに入るため、決定的な殺人には成り得ない。今作において現代のシリアル・キラーたる森田は圧倒的な腕力も、警察を撹乱する強力な知性さえも持ち合わせていない。彼の計画は徹底して短絡的であり、ヒメトカゲを暗喩したタイトルほどの弱者を呑み込む強大な支配力には欠ける。その代わり、彼は女・老人を含め、無関係な人間たちの命を大した理由もなく次々と奪っていく。『ディストラクション・ベイビーズ』の柳楽優弥の暴力はある種の清々しさを感じ、それゆえに小松菜奈や菅田将暉の心にも暴力への堪え難い衝動が伝播していった。それに対し、クライマックスの場面で「何人殺したってどうせ死刑だろ」と嘯く男には、1mmも共感出来ない。彼は徹底して孤独であり、暴力は連鎖せず、岡田にとっても安藤にとっても、ユカにとっても、ただひたすら森田の行動パターンは理解不能でしかない。中盤、森田の暴力と岡田とユカの性交がまるで等価な人間的な営みであるかのように、クロス・カッティングで描かれる印象的な場面があるが、だとすると加害者側の暴力の理由を書いたクライマックスはまったくの蛇足ではないか。我々観客が興味をそそられるのは、北野武の映画のような理由なき暴力であって、ありきたりなセンチメンタリズムではない。原作にはなかった部分を付け足し、バランスを図ろうとした吉田恵輔の気負いが見えたラスト15分の決定的な甘さが何とも勿体無い。

#吉田恵輔 #森田剛 #濱田岳 #佐津川愛美 #ムロツヨシ #ヒメアノ ~ル

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