【第258回】『贖罪 とつきとおか』(黒沢清/2012)

 黒沢清の40年以上にも及ぶ壮大なフィルモグラフィにおいて、最も苦手な表現とはいったい何であろうか?それを今あらためて考えることは実に興味深い。これまでの黒沢関連の著作を読むと、時代劇にはあえて挑戦していないのがわかる。それはカツラに起因する問題からである。外国人が観た時に、視覚的に違和感を覚えるのがカツラである。物語に入る前に、まずカツラにアレルギーがあるのではないかというのが黒沢の弁である。

『アカルイミライ』を製作した際、当時アップリンク所属だった野下はるみが、黒沢がホラー映画やヤクザ映画しか撮らないことに不満を持っていたことは以前のエントリでも述べた。80年代も90年代も、映画館に黒沢の映画を観に行くと主な客層は男だった。ヤクザ映画においては、シネフィル的な青年とイカツイ黒服のやっちゃんとが混じり合う異様な光景だったものの、極端に女性が少なかったことが思い出される。

90年代の黒沢映画のシンボルというべき主人公は、哀川翔と役所広司であることに異論のあるものは少ないだろう。役所広司と黒沢とは、生まれ年は1年違うものの、学年は同じで60歳で同い年である。哀川翔も1961年生まれで、監督と6歳しか違わない。単純に言って、同性で同世代というのは監督にとって演出しやすい。若い時に同じようなものを見て、同じようなことを感じ、監督として役者としてそれぞれのフィールドで研鑽を積んできた。映画にも阿吽の呼吸というものがあり、同世代で撮った作品にはやはり説得力がある。

しかしながらマーケティングの観点で言えば、哀川翔と役所広司では若い層の支持が得られないのは残酷ながら事実である。もちろん哀川翔も役所広司も好きという女性ファンの方もいるに違いないが、いかんせんパイは少ない。当然ながら、にっかつロマンポルノもVシネマも2000年代以降の一般映画も、目指すべきフィールドが違うということは誰の目にも明らかなはずである。『勝手にしやがれ!!』シリーズを、ヒロインが仁藤優子だからとか、鈴木早智子だからとか、黒谷友香だからとか、七瀬なつみだという理由で観るという人はおそらく少ないだろう。『勝手にしやがれ!!』シリーズは黒沢清、哀川翔、前田耕陽のファンは間違いなく観るべき作品であり、ヒロインが誰であろうが続きが知りたくて観るのである。同じく『復讐』シリーズにおいても、由良よしこであろうが佐倉萌であろうが、女優に対して過度な思い入れを持っている人は少ないだろう。やはりこのシリーズも哀川翔や黒沢清のファンが観るべき作品なのである。

残念ながら、一般の人々はカンヌやベルリンやヴェネチアで開かれる映画祭のことなど知る由もない。ましてやコンペティション部門とある視点部門の違いとはなんぞやである。詰まる所、黒沢映画には映画としての出来云々とは別に、流行る要素があまりないのである。それでもVシネマ以降の黒沢は、積極的に若手人気俳優を起用してきた。『ニンゲン合格』における西島秀俊、『カリスマ』における池内博之、『大いなる幻影』の武田真治、『回路』における加藤晴彦、『アカルイミライ』における浅野忠信とオダギリジョー、90年代後半からは意図してヒット作を出すべく、人気俳優を多数担いで来た。その中でも私が思い出すのは、『大いなる幻影』が武田真治のファンで満員になっていたことである。明らかにシネフィルではない層が小屋を占拠し、異様な光景だったのを覚えている。『アカルイミライ』においてもやはり若い女性ファンが多く劇場に駆けつけていた。だが残念ながら大ヒットとはならなかったのである。

流行る映画とは一体何なのか?それは私には皆目見当がつかない。『ドッペルゲンガー』の時には劇場に貼ってあるポスターに『踊る大捜査線』でお馴染みのユースケ・サンタマリア出演と書いてあった。私は当時『踊る大捜査線』も『ドッペルゲンガー』も両方劇場で観た。そして片方を面白いとは思わなかった。だが面白くなかった方の映画が大ヒットで、もう一方の面白かった映画の方が、映画の宣伝に面白くなかった映画を利用していた。あまりにも支離滅裂で、もう訳がわからなかった。単館であろうが、シネコンであろうが、流行る映画とは決して面白い映画ではないということは十分に理解している。つまり興行は水ものであり、それ以上でもそれ以下でもない。

では出資者に納得してもらう映画とはいったいどういうものだろうか?世界中のあらゆる国のあらゆるところでこの問題は議論されてきたはずである。21世紀に映画を撮ることは、相米慎二の時代とはあまりにもかけ離れているのである。だが『トウキョウソナタ』を観た時に、これまで哀川翔や役所広司の映画を観て、黒沢の名前を覚えた層がどれほど戸惑ったのかは想像に難くない。おそらく今年60を迎える黒沢にとっても、若者なんていないとうそぶくことでどれだけ楽になったかはゆうに想像できてしまう。けれど最前線に生きる監督として、黒沢は若い人たち、とりわけ若い女性に楽しんでもらえる映画とはいったいどういうものなのかを正面切って模索した。その成果が『トウキョウソナタ』であり、この『贖罪』であり、『岸辺の旅』であったことは想像に難くない。

病弱の姉・真由ばかりを可愛がる母に対し、小学生の由佳は大きな孤独を抱えていた。エミリちゃん事件発生後、交番に駆け込んだ由佳は自分の話を親身に聞いてくれた警察官に憧れを抱く。15年後、花屋を始めた小川由佳(池脇千鶴)は、姉の真由(伊藤歩)が警察官と結婚したことを知り、嫉妬から姉の夫で警察官の村上圭太(長谷川朝晴)を誘惑する。そんな中、足立麻子(小泉今日子)から突如手紙が届いた。

前作における回想形式の使用から一変し、冒頭の8分間の映像に回想を留め、15年後の現在を描写した中編。母親は病弱だった姉ばかりを可愛がり、妹は二の次だったことが回想シーンでこれでもかと描写される。幾ら何でもこれは酷いのではと思うほど、母親は姉と妹の間で差をつける。母親は妹の友達が殺された時も、ほとんど妹の話に関心を示さない。

そういう小さい頃の育て方が影響したのか小川由佳(池脇千鶴)という人物はどこか冷めた見方や考え方をもっており、エミリ殺しが発生した際も、他の3人の生徒の狼狽え方とは一線を画している。エミリの母親に贖罪しろと一方的に言われた際も、由佳だけは彼女に従属しようとせず、子供なりにあくまで自己流を貫いているのである。だがそんな彼女の心の中にも空洞が芽生えていたことを忘れてはならない。

事件から15年が経過しようとするある日、彼女は自らの店を持つ。タニマチである野口(赤堀雅秋)を言いくるめ、都内の一等地に店を出した由佳は、そこで店の主として申し分のない生活を送っている。由佳は姉の夫は公務員をしていると思っていたが、警察官だと知って、ほとんど一方的に誘惑する。彼女は現代のファム・ファタールになるのである。この真面目な姉とファム・ファタールな妹のいびつな姉妹関係を観た時、私は真っ先に『カリスマ』の風吹ジュンと洞口依子の神保姉妹を思い出した。役所広司がある村に足を踏み入れた時、突然車は燃え、やっとの思いで逃げた先にはカリスマの木がそびえ立っている。姉は木に聴診器を当てただけで木の体調を感じるドクターであり、妹は何をしている人なのか結局最後までわからない。いつも突然、都会からやって来た役所広司の前に現れ、彼を誘惑するのである。

今作においても妹の由佳のキャラクターは子供の時から、天性のファム・ファタールの才能を内に秘めている。自分を褒めてくれた警察官の男に恋をし、手を握ってと微笑みかける。家における姉や母親とのいびつな関係性が、彼女を外へと向かわせているのである。おそらく両親が他界し、姉妹だけになった真由は由佳に対し、「ずっと仲良くしようよ」と話しかけるが、そのことに対しても由佳はほとんど関心を示さない。小さい頃の2人の関係性は逆転し、妹が姉の家庭を破滅へと向かわせるのである。

池脇千鶴が演じた由佳というキャラクターはとにかく嫌な人間である。自分の女としての武器を十分に使いながら、愛人も姉の夫をも誘惑し自分のモノにする。姉の真由が洗い物をしている時に夫に近づき、姉の居ない間に家に入り込み、胃袋を掴み誘惑する。子供が出来た際にも驚いたり、動じたりすることはない。全ては彼女の計画通りに物事が進み、姉の幸せを横取りしようとするしたたかなモンスターになるのである。姉夫婦に妊娠を告げる場面の由佳の底意地の悪さには心底ぞっとした。姉役を演じた伊藤歩の狼狽ぶりが実に良い塩梅である。最初は夕食の片付けを終えて、夫と妹のただならぬ関係に気付き2人を別々に責めるがはぐらかされる。その時の何とも言えない複雑な表情がしっかりと表現出来ている。この伊藤歩と池脇千鶴のやりとりが、『岸辺の旅』の蒼井優と深津絵里のせめぎ合いに繋がっているのは言うまでもない。ここでのせめぎ合いと同様に、一方がもう一方に完膚なきまでに打ちのめされる。それを呆然と見守るしかない状況に、伊藤歩も深津絵里もいるのである。

ここまで3話の主人公たちは、明らかに小泉今日子演じる母親に対して気後れしていたが、クライマックスではそんな母親と互角に張り合わんとする池脇千鶴の堂々としたふてぶてしい佇まいを見ることになる。ラストの3分間の描写はこれまでの4話とは打って変わり、いよいよ犯人と対峙することになる小泉今日子の覚悟をもたらすことになる。今作で黒沢はまるでフランス産サスペンスのような新しい領域に一歩踏み出したのである。

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