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おしえご

「先生、久しぶり!」

私には4回しか教えたことのない教え子がいる。4回しか教えたことがないのに目が合うたびにパッと笑顔が咲き、1年しか違わないのに私のことを「先生!」「先生!」と呼ぶとてもかわいい教え子がいる。

私は大学1年の春から冬までの間、個別塾の講師をしていた。担当は英語と国語、とちょっと数学。推薦受験で入学したような私のぬるい知識ではこの子たちの受験料に見合わないのではと思い1年持たずに辞めてしまった。

小学生の頃は塾を忌み嫌っていた私だが、講師という立場で入ったその塾はとても好きだった。私の担当の子はまともに勉強をしてくれなかったので授業時間の7割方は一緒にお絵描きをして終わった。

私には少し厄介な案件が回ってくることが多かったように思う。私が冒頭の彼女に出会ったのはわんぱく坊主も羽織1枚は着て来るようになる11月下旬のことだった。

塾長が制服姿の女の子と談笑しているところを通り過ぎると呼び止められた。どうやら国語が「とんでも」らしい。「ほかの教科は上出来なのにね~」と笑う塾長の隣で、他人事のように「ほんとそうなんですよ~」と楽しそうに笑っていたのが彼女だった。こうして私は彼女に国語を教えることになった。

確かに彼女の国語力は芳しくなかった。初回授業、本当に苦手だと念を押すので、さすがに大丈夫だろうと始めた小学6年生のテキストが解けず、3年生のテキストから始めた。

彼女はその他優秀な成績のおかげですでに大学が決まっていた。そのため“芳しくない国語”を本気でどうにかしなければいけないわけではなかったのだが、最低限の国語は一生必要だからと苦境に身を置くまじめな子だった。

彼女は登場人物の心情を問う読解問題を特別苦手とした。彼女曰く「架空の人物が何を考えているかなんて分かるかよ!」ということらしかった。

塾にいる間に何度も聞いたセリフだった。そういう時私はたいてい、映画でも漫画でもアニメでもいいからいっぱい見るようにと勧めた。

しかしそれに対する彼女の反応はいつもとは違った。映画も漫画もアニメもダメだという子は初めてだった。「私感情がわからないんだよね。」彼女はそう言っていつものように笑った。
 
彼女はリストカットをしていた。春の兆しが見えない3月のある日、私たちはチキンのクリーム煮が有名なカフェで向かい合っていた。その日は雨予報だった。チキンは柔らかかった。彼女はヘラッと笑っていた。

家が本当に嫌いなんです。パパとママが毎日喧嘩していて…その声が二階の私の部屋まで聞こえてくるの。声が聞こえるとまず耳をふさいで、でもイヤホンは妹に貸しちゃったから布団をかぶる。それでも聞こえてくるの。寝られなくって。まぁ最近は締め作業で1時までバイト入れているから聞かないで済んでいるんですけどね。

両親の喧嘩はこの4年間欠かさず行われている。暴力的な言葉も、物も飛び交わない“たかが”喧嘩。

彼女は別に両親のことが好きなわけではなかった。彼女の父親は自分の希望を押し付けてくる人だった。彼女の母親は「ふ~ん」ですべてを終わらせる人だった。

腹が立って泣きたくならないのかと聞くと彼女は、泣く時の感情がよく分からないと答えた。頬を平手打ちされたように時が一瞬止まった。

小3の国語に苦戦する彼女を思い出した。いつも笑っている彼女を思い出した。この後私はいつも通りの軽口を返せただろうか。

人に正の感情よりも負の感情が残りやすいのは、負の感情の方がエネルギーを発散しにくいからだと聞いたことがある。嬉しい時、楽しい時は、腕を高らかに上げたり、大声で叫んだり、友達に共有したりすることでエネルギーがあっという間に飛んでいく。

しかし悲しい時や辛い時、人は誰にも言わずに心の奥にしまい込むことが多い。その学者先生は、涙は負のエネルギーを発散するためにあるのだと言った。

涙が出ない彼女にも心の限度額がある。溢れ出た感情はセーターの袖に隠されている。もう少しの間春を遅らせてほしいと筋違いな願いを心でつぶやいた。
                  text/叶乃

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