連載 ひのたにの森から~救護の日々⑫救護施設の50年
御代田太一(社会福祉法人グロー)
チイキとシセツの間にあるもの
アパートのある近江八幡から、ひのたに園へは車で40分ほどかかる。近江八幡の市街を抜けると、畑や田んぼに囲まれた道が続く。車は少なくて、運転しやすい。20分ほど運転すると「ひのたに園」の名前の由来でもある日野町へと入る。
日野町は滋賀県の南東にある、人口2万人ほどの町だ。近江商人ゆかりの地として知られ、3月のひなまつりでは、商店街を中心に多くのお店や家庭が、豪華なひな人形を一斉に飾り、県内外の観光客も多く訪れる。
日野町に入ると見えるのは2014年にできたショッピングセンター「フレンドタウン」だ。滋賀では誰もが知るスーパーマーケット「フレンドマート」を中心に、本屋、衣料品店、薬局、ホームセンター、ファミリーレストランなどが立ち並ぶ。そんなフレンドタウンを横目に車を走らせ、日野町立図書館前を左折すると、もうすぐひのたに園だ。
ひのたに園の利用者が外出できる時間は9時から17時。出勤時間が9時を過ぎると、すでに園から外出してくる数名とすれ違う。彼らの目的は、図書館だったり、単なる散歩だったり、フレンドタウンの無料WiFiだったりする。
窓を開けて、「おはようございま~す」と軽く挨拶しながら通り過ぎる。そして「救護施設ひのたに園」という大きな看板から始まる長い坂を上ると到着だ。
この坂を100メートルほど登った先にひのたに園がある
全国に186か所ある救護施設の中には、一番近いコンビニまでは歩いて1時間かかる、なんてところもあるらしいから、全国的に見れば、ひのたに園は比較的市街地に近い救護施設なのかもしれない。
ただ、そんな距離的には近いひのたに園と近隣地域は、この長い坂によって隔たれているのも事実だ。開設当時、建設地を探す中で、山を切り出したこの場所に建設することになったのだろう。ただ坂の下を通り過ぎるだけでは、一体どんな施設が坂の上にあるのか分からない。ましてや100人の人が暮らしているとは思わない。
初めてひのたに園を訪れたとき、この坂を見て、「千と千尋の神隠し」の序盤のシーンに出てくる、車を降りた千尋と両親が足を踏み入れるトンネルを連想してしまった。人間の暮らす社会から八百万の神々が住む世界へと誘う存在として描かれる映画のトンネルと、一般的な生活範囲である「地域」からどんな人が暮らしているのか想像がつかない「施設」へと繋がるこの坂が、どこか重なって見えてしまったのだ。
実際、日野町に暮らす人達には、どんな風に見えているのだろうか。「救護施設、と書いてあるけど、坂の上に何かあるのかな」と気にも留めていないだろうか。それとも毎日のように色んな人が坂を下りてくる姿を見て「意外に元気そうな人もいるんだなあ」とでも思っているかもしれない。
在籍期間のデータから見える変遷
しかし、地域の人から見える以上に、ひのたに園は様々な状態・事情の人が暮らしている。暮らしている年数も様々だ。それを表すのが、100人近くいる利用者の在籍期間をまとめた以下のデータだ。
利用者の在籍期間データ(2010年度・2019年度時点)
2019年度のデータを見て分かるように、在籍期間1年未満の人が最も多い。そして半数が3年未満だ。失業や一時的な生活困窮のために入居する人たちで、体は丈夫な人も多いから、仕事やアパートを見つけて、比較的短期間で退所するタイプの利用者だ。地域の人たちがよく目にするのも、このゾーンにいる人たちが主だろう。
しかし一方で、40年以上という方が10人いる。ひのたに園で40年以上暮らしているということだ。実は、ひのたに園には開設当初から暮らしている方たちがいるのだ。
その一人である、現在74歳の植山さん(仮名)は、最も長い期間在籍している方だ。1970年の開設とほぼ同時に入所し、50年間をひのたに園で暮らしている。入所番号は7番。職員の名前を覚えるのが好きで、名前を覚えた職員を指さして「このひと〇〇さん!!」と甲高い声で話しかけてくれる愛嬌のある女性だ。そんな植山さんがひのたに園にやってきた1970年、ひのたに園はどんな風にして、救護施設としての産声を上げたのか。
そんなことが気になり始めたころ、2020年にちょうど開設50年を迎えたこともあり、「ひのたに園の半世紀を振り返りながら、今のひのたに園をいろんな角度で切り取った、50周年記念誌を作ろう」という話が持ち上がった。ちょうど面白いタイミングに巡り合えたと思い、編集担当に手を挙げた。これまで10周年、20周年には記念誌を作っていたが、それ以降は特に作られておらず、施設としても30年ぶりの記念誌ということになる。
滋賀県立日野渓園開設10周年記念誌「10年のあゆみ」(1980年作成)
1970年に産声をあげたひのたに園
記念誌の冒頭企画として、「開設当時のひのたに園を語る」という座談会を実施した。開設当時にひのたに園で勤務されていた4名の方にお声がけをして、開設当時の話を聞かせてもらった。
座談会に参加した、開設当時に勤められていた皆さん
ひのたに園は滋賀県の県立施設「日野渓園(ひのだにえん)」として、1970年6月1日に開設された。今はコンクリートで舗装されている園へと続く坂道も、当時は土でぬかるんでいたという。
私は5月に初めて来ました。園までの坂道がすごくぬかるんでいたのを覚えています。(元栄養士・皆川さん)
柔らかい地面で、膝までスポッと入って、長靴がはまって足だけ抜けてしまう。笑(元指導員・前宮さん)
開設と同時にやってきた利用者を園まで連れていくために、ぬかるむ坂道を職員がかついで上がったそうだ。そんな状態で始まったひのたに園の当時の入居者は、もっぱら地域で暮らしている、比較的重い障害のある人たちだった。
>当時はどんな方が入所されていたんですか?
最初は車いすの人が20人、寝たきりも2~3人いたかな。その当時、障害のある人は家族の一人に数えへん。要するに座敷牢。そういう人もいはった。(同・前宮さん)
家族と一緒に暮らすことが難しくなった障害のある方が、世帯を分離して、生活保護を単独受給する形で、ひのたに園に入居していたのだ。今のような障害福祉サービスが地域にほとんどなかった時代ならではの、特例的な措置だった。
中には障害のある三兄弟が、一斉にひのたに園に入所した家庭もあったそうだ。また障害のある方が、地域の中で、今ではなかなか想像がつかないような状況に置かれていたことも知った。
兄弟が結婚することになって、でも相手方には隠しているので急いで入所させてほしいと。せやから面会の通知や行事のお知らせを送らないで下さいと。相手方にばれてしまうから。そういう人は家では座ったっきり、寝たきりだから、初めはハイハイ歩き。でもしばらくすると歩けるようになる。(元事務員・舩川さん)
10周年記念誌に載る白黒写真
当時のクリエイティビティと変わる利用者像
開設と同時に、何十人もの障害のある人たちを受け入れ、限られた職員たちで支えながら、一つ屋根の下で暮らす。想像するだけでも大変なことだが、前例のない完全に手探りの状況だったからこそ、当時の職員の皆さんがクリエイティブに施設運営にあたっていたことも分かった。元栄養士の皆川さんは、当時の厨房の様子を語る。
初めて園に行ったとき「6月1日の開園まで少しずつ準備してくださいね」って言われて。職員は園長さんも合わせて10人くらいやね。園生さんは3~5人ずつとか福祉事務所が連れてきてくださって、約1年経って100人になりました。全然動けない人や、口だけ達者な人、色んな人がおりました。その頃は一般的に調理室の中も水を流していたんですが、衛生的なドライシステムを導入しました。もう無我夢中で過ごしたように思います。初めての給食はカレーライスとサラダ。園生は15~16人でしたけど、当時はルーを作るところから。
食材の注文も、今のような注文システムがない中で、それぞれの注文量を手計算していた。皆川さんは、出産で休んでいる時も自宅で献立を書き、他の職員がその献立表を取りに行っていたという。なんとアナログな「テレワーク」だろう。
今の半分ほどの職員数で、障害のある人たちの暮らしを支えるのが当時のひのたに園だった。今では年間70人近くいる退所者も、当時は病院に入院する方や亡くなる方のみで、1年に数えるほどだったという。そんな中、バス旅行や他救護施設との合宿形式の交流会、様々な行事が催された。
保管されていたビデオ
座談会の企画にあたって事前に、奥の部屋に保管していた段ボールから「1990年 節分 お花見会」と書かれたビデオテープを引っ張り出してみた。施設にあったブラウン管テレビのホコリをぬぐってビデオを再生すると、そこには職員や利用者、その家族たちが体育館に座ってすき焼きをつつく、ほのぼのとした様子が写っていた。他のビデオにも、みんなで劇を発表したり、カラオケ大会をしたり、運動会をしたりと、家庭的な雰囲気が画面いっぱいに溢れていた。
ブラウン管に映る映像
そんなひのたに園だが、次第に重い知的障害や身体障害のある人を受け止める施設やサービスが生まれ始めたことで、重い障害のある人の新規入所は減っていった。その代わり、時代が平成に入った1990年代頃から「新しいお客さん」がやってくるようになる。その頃の様子を元指導員の前宮さんはこう語る。
そのうちにだんだん、ホームレスとか精神障害のある人が多くなってきて。今度はこっち(お酒を飲むポーズ)
アルコール中毒の人で、公衆電話から隠れてお酒を注文して、裏からお酒をもらってきはった人もいたね。
知的障害や身体障害のある人がほとんどで、家庭的な雰囲気の中、どんな時も何らかの手助けが必要だった人たちを相手にしていた職員にとっては、自分でお酒を注文できてしまうような人を支援するというのは、まったく別の仕事のように思えたかもしれない。
50年後を想像する
ただ職員の戸惑いをよそに、開設当初から暮らす方が入院したり、亡くなって空いた定員に、身体は元気でも、その裏に様々な事情を抱える方がやってくるようになったりした。入退所の頻度も増えていった。そして当初は「終の棲家」と言ってもよかった施設は、次の生活のために一時的に利用する「通過施設」として、その役割を果たすようになった。全国の救護施設の年間の入退所者が20名弱であることを考えれば、年間70名近くが出入りするひのたに園は、特に出入りの激しい施設でもある。
コロナ禍においては、高齢者も大勢いる施設にウイルスを持ち込まないよう対策を取りつつ、各地で困窮する様々な事情の人の受け入れ先となるという、一見相反するミッションも課された。しかし、どちらも「いのちを守る」ための取り組みには変わらない。結果的に、近隣のホテルや旅館と連携し、一時的な隔離場所を提供してもらう形で対応してきた。
救護施設は時代や地域によって変わる社会的要請に応え、その都度顕在化する課題や不足している社会資源によって現れる「制度の穴」を埋めるような存在でもある。だからこそこの50年間、役割を変えながら多くの人の暮らしを支えてきた。
10年後、20年後、50年後のひのたに園を想像してみる。50年後も、社会はまだ救護施設を必要としているだろうか。そうだとしたら、どんな人が利用しているだろう、どんな社会になっているだろう。
ひのたに園開設50周年記念誌「くらしをつなぐ」
過去の職員へのインタビューや、利用者16名のポートレートと聞き書き、現施設長とNPO法人抱樸の奥田知志さんと対談、データで見るひのたに園、など様々な角度で「ひのたに園の今」を切り取った。
つづく
みよだ たいち
1994年神奈川県横浜市生まれ。東京大学教養学部卒。在学中、「障害者のリアルに迫る」ゼミの運営や、障害者支援の現場実習、高齢者の訪問介護などを体験する。卒業後、滋賀県の社会福祉法人グローに就職し、救護施設「ひのたに園」にて勤務。
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