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連載 ひのたにの森から~救護の日々 ②


                            御代田太一(社会福祉法人グロー)

万引きされたお菓子の山

初出勤をする2日前のことだった。
運転の練習のため、農道を20キロ走った先にある施設へ向かってみた。

車を止めると、40代くらいの男性が近づいてきた。

「こんにちは~」

と愛想よく迎えてくれた。両方の鼻の穴からこれでもかというほど鼻毛が伸びている。

<マジか…ここの職員さん、こういう感じなのか…>

この先、こういう職員さんたちと一緒に働いていくのかと思ったら、ため息が漏れた。


初日、法人での辞令交付を終え、自分が勤務することになる施設へと向かった。「ひのたに園」という救護施設だ。

新卒の同期は6人いたが、救護施設への配属は自分だけ。緊張の初出勤だったが、事務所にあった大量のお菓子がはいったビニール袋が目に焼き付いている。

「御代田くん、これ凄い量のお菓子でしょ。持ってく?(笑)」

何のお菓子かと尋ねると、前日、利用者の一人が近くのスーパーで万引きしたものだという。お菓子だけで数千円にも上る万引きだ。

施設のすぐそばで警官に囲まれている利用者の姿を、帰宅中の職員が見つけて発覚した。万引きは数回目で、警官もマークしていた。すぐに車を降りて警官に事情を説明。お菓子は施設で買い取り、利用者とともに戻ったのだという。

ひのたに園入口

ひのたに園の入り口。坂を100mほど登ると園がある。


救護施設は、生活保護法によって規定された保護施設のひとつだ。

18歳以上なら誰でも利用でき、身体障害・知的障害・精神障害といった障害の種類による対象者の限定はない。

ホームレス、派遣切りにあって家を無くした人、依存症で生活が破綻した人、刑務所を出ても行く先のない人、DVから逃げてきた人など、その利用者は実に多様で複合的な課題を持っている。

必要と判断されれば、誰でも即日入所できる唯一の公的な生活施設で、利用期間の定めもない。3日で仕事を見つけて出ていく人もいれば、50年入居している方もいる。

全国に約180か所しかないため、一般的な認知度は高くないが、他のあらゆる制度や法律では支えきれない人がやってくるから“最後のセーフティネット”とも呼ばれている。

時代や場所、様々な社会ニーズによって役割を変えながら、命と生活を支えている施設だ。

もう一つ、初出勤で分かったことがある。

あの鼻毛の人は、利用者だった。職員じゃなくて少しホッとした。それにしても、若々しさや愛想のよさ、コミュニケーション能力の高さに「救護施設入居者」のイメージを崩された。


カレーで食中毒

はじめての一人暮らし。自炊なんてしたことがない。

缶詰めと冷凍ご飯を東京から大量に持参していた。それでも、缶詰ばかりの毎日ではさすがに飽きる。

休みの日、ひとりで部屋にいる時間が長かったせいか、ふと思いついてカレーを作ってみた。安い値段だったジャガイモを多めに使った人生初の自作カレー。意外と簡単に出来上がった。

初カレー

初めて作ったカレー


せっかく作ったカレーだ。なるべく長く持たせたい。毎日のように少しずつ、大事に食べることにした。

数日後の昼休み、突然の胃袋をつねられるような鋭い腹痛が走った。施設の看護師さんにそっと相談した。



「食中毒ちゃう? そのカレーいつの?」

「1週間くらい前です。。。」

「じゃあカレーやね、作ったらすぐ冷凍しないとー!」


冷凍しないとカレーは腐るのか。灰汁だと思ってすくっていたものはカビだった。

季節は湿度の高い初夏を迎えていた。じゃがいも多めのカレーは特に要注意だったようだ。

「東大生って意外にこんなことも知らんのやね~」


いじってもらえるきっかけにはなったが、腹痛に悶えながら料理など二度と作るものかと思った。

都会育ちで、身の回りのことは親が何もかもしてくれた。自分で料理もしたことのない、自室のカーテンを開けたことすらない。

そんな自分が誰かの暮らしを支えるというのは、おかしな話と言われれば、そうなのかもしれない。

今思うと恥ずかしくなることばかりだ。

カーテンの開け閉めや喚気を忘れて注意されるたび、「電気付ければ明るいのに、なぜカーテンを開けるの?」「換気ってなんか良いことあるの?」と思っていた。

マニュアル業務に埋め尽くされる日々

そんな自分だが、24時間の人の暮らしに関われることは楽しみだった。

2人部屋がメインの施設だから、決して暮らしやすいとは言えないし、もしも自分が入居したらと考えると嫌だと思った。

だが、あくびとともに朝日を浴び、夜になって寝静まるまで、利用者と時間を共にできる日々にワクワクしていた。

しかし、100人の24時間を支えることのリアリティまでは想像できていなかった。

利用者の人生や人柄に興味を持って就職したわけだが、現場職員の勤務時間のほとんどは排泄や食事の介助で埋め尽くされている。

寝たきりの方や車いすの方も多くいて、週に3日ある入浴介助は職員総出の大仕事だ。

食事の後の介助では、手洗い⇒歯磨き⇒トイレ⇒居室へ、とベルトコンベヤのように何十名もの利用者を誘導する。

掃除、洗濯にも多くの時間を取られた。

トイレ掃除では便がこびりついた手強い汚れと格闘する。風呂当番では覚えたてのお風呂場のセッティングを慎重に再現する。

でもバスマット1つ敷き忘れ、お風呂の温度が少しぬるいと「今日の風呂準備したの誰や~!」と容赦なく利用者から叱責が飛んでくる。

施設の浴室

施設の浴室。シャワー台は全部で9つある。


洗濯も大仕事だ。

自分で洗濯できる人以外は、利用者の衣類には上着から靴下まですべてマジックで苗字を書き込んで、一斉に洗濯・乾燥し、仕分けして各部屋に戻す。

おそらく入所施設ではよくある光景だ。

職員同士でケアについてゆっくり議論する時間や雰囲気はほとんどなく、昼食を食べながら「〇〇さん座薬入れたらめっちゃ出たわ~」と利用者の排便状況を共有するような日常だ。

<もっとシンプルなマニュアルがあれば、時間の使い方を工夫すれば、ちゃんと設備投資をすれば>

<これじゃ利用者とゆっくり話す時間なんてないじゃないか>

言いたいことはたくさん出てくるが、業務も覚えてない自分の、そんなつぶやきを受け止めてくれる相手もいないから、ぐっと飲みこむ。

<大学時代に夢想していた「ケアの現場」とはまるで違う>

<なんのために滋賀まで来たんだ。こんな日々に消耗するだけか……>

胃が締め付けられる思いがした。



利用者に初めて怒鳴られた!

「東大卒」という肩書もここでは邪魔だった。

職員から僕の学歴が伝わったのだろうか、喫煙所に集まる利用者の間で「あいつは東大だから、ここを1年見学してすぐ本部に行くらしい」という噂が流れているのを知った時は、さすがに怯んだ。

社会の底辺を這うように生きてきた人々からすれば、「東大卒」の新人職員は招かれざる客だったのかもしれない。

入職して3か月目のことだ。

利用者10名弱が、車で10分の所にある元老人ホームの1室で作業をして工賃を稼ぐ班があった。そこの担当になったのだが、作業を覚えるのに精いっぱいな僕をよそに、利用者はさっさと作業を進める。

ただ「自分は支援員なのだから」と思い直して、作業の進め方について「指導」をした。途端に大柄な男性利用者から怒鳴られた。

「なんも分からん奴が手え出すな!」

僕の姿が生意気に映ったのだろう。その場にいる職員は僕一人だった。泣きたいような気持ちになった。

「あ、でも、すみません」

しどろもどろに平静を装ってその場を取り繕った。そのまま何も変わらず、帰る時間になった。

帰り際、車のカギを開けようとしていると、ある男性が「ちょっと真面目過ぎやな、肩の力抜くんだべ、がんばれ」と言い残して、ポンとお尻を叩いて過ぎていった。ほんの2,3秒のことだった。

作業班の様子

作業班の様子。月に1万円弱の工賃になる。



記憶喪失の人に慰められる

その人は、記憶喪失状態で施設にやってきた方だった。
何かのきっかけで記憶を失い、交番に行ったら、二日酔いと間違えて追い返されたという。

路上で一夜を明かし翌日も訪ねたところ「これはおかしい」と警察も気づき、その日に救護施設に入所した。

救護施設には、時々こういう人がやってくる。体はしっかりしていて、コミュニケーション能力も高いため、作業班では中心的な役割を担っていた。

名前も住所も、なぜ記憶喪失に至ったのかも分からないままで。(生活保護受給には氏名が必要なので、福祉事務所がつけた仮名を使って過ごしていた。)

普段は飄々としていたその男性がどんな気持ちで救護施設での日々を過ごしているのか、業務を覚えるのに必死だった自分に想像する余裕はなかった。

ただ励まされた時、情けなくも、すごく気が楽になったのを覚えている。なんというか、感動したのだ。

励まされたのは当の自分だが、記憶喪失状態にある人がその支援者を気遣う場面に立ち会って、人間の自由と可能性を見せつけられたような気がした。

その男性は、ある日施設のカレンダーに写った山の写真から故郷を思い出したのを皮切りに、断片的に記憶が甦っていった。

そして出身高校の卒業アルバムから氏名が分かり、家族とも連絡がとれ、数カ月の後、東北の実家に帰って行った。

そんな風にして、救護施設で仕事をする日々が始まった。
                                         つづく

職場近くの田んぼ

職場近くの田んぼの風景



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みよだ たいち
1994年神奈川県横浜市生まれ。東京大学教養学部卒。在学中、「障害者のリアルに迫る」ゼミの運営や、障害者支援の現場実習、高齢者の訪問介護などを体験する。卒業後、滋賀県の社会福祉法人に就職し、救護施設「ひのたに園」にて勤務。


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