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コミュニティを”選べる”ことによって生まれた弊害

この数年でオンライン上にコミュニティがどんどん立ち上がり、コミュニティの概念が一気に広まってきたと思う。

東京は特にその感覚を強く持てる環境で、複数のコミュニティに所属するというひとはまったく珍しくなくなっている。

「自分に合うコミュニティを選べる」

これは地域コミュニティでネガティブに感じられていた部分と比較すると、いいことだと思う。

地域コミュニティでは、どうしても地縁関係のコミュニティに所属せざるを得ず、あまり相性が良くないひととも付き合っていかないといけない状況にあった。

人間関係にも、コミュニティにも、どうしても”合う””合わない”は存在する。より充実した人生を過ごしていくためにも、”合う”ひととの関係を大事にしていくことは大切にしたい視点である。「”合わない”ひととの人間関係に疲弊するのは、時間もエネルギーももったいない」そんな主張には僕も賛同する部分は多い。


さて、ここで立ち止まって考えたいのは、自分に合うコミュニティを選べるようになった結果、豊かな人生を歩めるようになっているのだろうか?ということ。

選べるということは、コミュニティを抜けることも簡単になった。メンバーの意思ひとつで、すぐに距離を取ることができる。

精神的な健康を考えるととてもポジティブなことだが、豊かさを考えた時に貢献に繋がっているのか?は人によって大きく左右されるポイントなんじゃないかと思う。

その理由としては、「居場所として感じられる感覚」がある。

コミュニティに対して帰属意識を持ち、自分にとってひとつの居場所として感じられる感覚は、コミュニティが生み出せる大きな価値のひとつなのは間違いない。

オンラインコミュニティを自分の居場所として捉えているひとは珍しくないし、僕もそのうちのひとりだ。

ただ、そうやって居場所として感じられるようになるには、コミュニティ運営側の努力だけでは不可能だなと思っている。

参加者であるそのひと自身が、自分の手で居場所にしていかなければいけない側面は間違いなく存在する思う。

自然と居場所になっていく、というよりは、自分で居場所にしていくという表現の方が適切なのではないか、そう感じている。もちろん、運営者が環境をよりいいものにしていく努力は必須。そのうえで、どう立ち振る舞うのか?が、メンバー自身にも問われているんだろうなと思う。居場所は与えられるものではなく、自分で生み出すものだなと。


そうなったとき、大事になってくるのは「胆力」なのではないだろうか。

自分自身のなかに生まれるちょっとした心の動き、感情に振り回されることなく、腰を据えてコミュニティと向き合うこと。その時間の積み重ねが、その自信のなかにあるアイデンティティを膨らませ、居場所感覚を持てるようになる。

その「胆力」が、コミュニティ選べるようになることで、簡単に離れるようになったことで、少しずつ失われているのではないか?という懸念を最近持つようになった。

自分のなかにある欲望の奴隷となることが、より叶いやすい環境だからこそ、大事なものを見失って意思決定をしてしまう。もしかしたら、そもそもの姿勢として、利用すべきひとつの手段程度にしか思わなくなってしまっているのかもしれない。

そんな弊害が生まれつつあるのではないだろうか?


僕はコミュニティ運営サイドで動くことが多いので、こういう話を書くと「参加したら抜けるな!」という解釈をされてしまうかもしれないので、それはちゃんと否定しておきたい。

参加も自由、やめるのも自由。それ自体は僕自身もとてもウェルカムだからだ。ただ、気をつけないといけないこともあるよ、というメッセージと受け止めてもらえると幸いである。

コミュニティ運営者として、来てくれたひとがより過ごしやすくなるための環境はどんどんつくっていきたい。そこに来てくれたひととは全力で楽しみたい。そのうえで、そのひとの手によって、そのひと自身の居場所にしていってもらえると嬉しく思う。

そうやってひとつひとつが積み重なり、コミュニティは育っていくものなんだろうなと。

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