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【他者の顔】なぜ、この人はこんなにバカに見えるのかしら?と思ってる人へ

学びや気づきを与えてくれるのは、誰?

20世紀に活躍したフランスの哲学者に、エマニュエル・レヴィナスという人がいます。彼は、幼少期よりユダヤ教の経典「タルムード」に親しみ、成人してからは独自の倫理学、エドモント・フッサールやマルティン・ハイデガーの現象学に関する研究を残したことで有名です。

レヴィナスの哲学は、倫理、他性といった概念で広く知られていますが、なかでも「顔(visage)」という言葉は非常に重要な意味を持ち、これには「他者が私のうちなる他者の観念をはみ出しながら現前する様態」という表現が含まれており、その理解は一筋縄ではいかないと言われています。

「ちょっと何言ってんだかわかんない・・・」と、言いたくなりますよね。

先述した表現のように、レヴィナスが残したテキストはどれも極めてわかりにくく、レヴィナス自身はどうも「他者」という概念を、人以外の概念にも拡大して用いている・・・かもしれない。

ただ、哲学研究者でもない私たちのような立場の人間がレヴィナスのテキストから何かを汲み取ろうというのであれば、まずはわかりやすく「他者とは、なかなか分かり合えない相手」ということで、まずは良いと思います。

さて、この他者についての議論、すなわち「他者論」が大きな哲学上の問題として浮上してきたのは20世紀の後半になってであり、これにはどうやらある種の必然性があったようです。

そもそも哲学というのは、世界や人間の本性について考察する営みですが、古代ギリシアの時代以来、膨大なエネルギーをかけて考察が積み重ねられてきたにも関わらず、「これこそが心理だ!」というような決定打は、どうも未だに見つかっていない。

これはいったい、なぜなのでしょうか?

その答えは明白、ある人にとって「これが答えだ」とされるものが、決して「他者」にとっての「それ」ではないからです。

だから連綿と「提案」と「否定」が続く、永遠に完全な合意に至らないかのように思える、この営みが、「わかり合えない存在」としての「他者」の存在の浮上につながったのでしょう。

私はホワイトカラー職に15年余り就いていますが、私の目の前では日夜さまざまな人がおよそ良質などとは言い難い・・・言いようがないコミュニケーションまがいの会話をしています。

聴いてるふり、知ったかぶり、相槌を打つが内容を理解していない、話題をすぐに変える、相手の言ったことを繰り返すだけ、他のことを考えている、相手の話に興味がないのに興味があるふりをする、専門用語を使いこなしているふりをする、やたらと経験だけを伝える、知識を偽って話す、自分が正しいと主張し相手の意見を無視する、自分が知らないと思わせないために曖昧な返答をする、話の要点を理解せずに反応する、自分が全てを知っているかのように振る舞う、blah blah blah

このような互いが互いをバカだと思っているようなディスコミュニケーションが散見されます。面と向かってのコミュニケーションでさえこれです。相手がいなくなった途端に巻き起こる陰口など、実に不誠実極まりない人が多い。実は言いたいことがあるのにも関わらず、そのようなダサいことをする。そんな愚かな態度を取るくらいなら、誠実に相手の目の前で議論を戦わせればよいだけのはずなのに。

ここで重要となる概念が、レヴィナスの言う「他者」です。これは文字通りの「自分以外の人」という意味ではなく、どちらかというと「分かり合えない者、理解できない者」といった意味です。

養老孟司先生の『バカの壁』という本が大変なベストセラーになりましたが、レヴィナスの他者を分かりやすく表現すれば、要するに「バカの壁が邪魔して通じ合えない相手」ということになります。

と、ひとまずここまで見てきただけでも

・ある人にとって「これが答えだ」とされるものが、決して「他者」にとってのそれではない
・互いが互いをバカだと思っており、相手に見えないところで不誠実極まりない態度を取る
・他社とは、分かり合えない者、理解できない者
・バカの壁が邪魔をしている

上記のポイントだけに的を絞ってみても「ムリゲーじゃん」「諦めた方がいい」と思われるかもしれません。レヴィナスにおける「他者」は、私たちがふだん用いる「他者」という言葉よりも、遥かにネガティブなニュアンスを持っているわけです。

しかし、それでもなお、レヴィナスは「他者」の重要性と可能性について論じ続けています。 「本当?意味無くない?」と言いたくもなるわけですが、そのようなよそよそしい相手、わかり合えない「他者」が、なぜ重要なのか?レヴィナスの答えは非常にシンプルです。

それは、「他者とは ”気づき” の契機である」というものです。

自分の視点から世界を理解することは、それぞれの人にとって自然なことですが、それが必ずしも普遍的な真実であるわけではありません。他者の視点や意見を理解しようとすることなく、自分の視点のみが正しいと考えることは、しばしば対立や誤解を生み出します。

人類の歴史を見ると、多くの対立や争いは、相互理解の欠如や、他者を否定する態度から生じています。今まさに起きている紛争や戦争もそう、「どちらかが間違っている」のではなく、「どちらも正義を主張している」からこそ起きているのです。

だからこそこのとき、自分と世界の味方を異にする「他者」を、学びや気づきの契機にすることで、私たちは今までの自分とは異なる世界の見方を獲得できる可能性があるのです。

ちなみに、レヴィナス自身はこのような体験を、ユダヤ教の師匠と弟子である自分との関係性の中から体験的に掴み取っていったそうです。

私は「勝手に」お師匠さん(山口周)に憧れて、「勝手に」弟子活動をしていますが、今この記事を書いているこの瞬間も「全くもってわからない」ことだらけです。「お師匠さんは何がしたいんだろう?」「お師匠さんがいう高原社会は、どんな姿があり得るだろう?」「キリスト教はビジネスパーソンを救えるか?」「真の共産主義革命は可能か?」そんなことを毎日考えて、挑戦しています。

ええ、そうです。ストーカーです。

・・・

・・・・・

違いますからね?


断じて、ストーカーではねーです。まったくもう。

うおほんっ!さて、一橋大学の学長を務めた歴史家の阿部謹也は、指導教官であった 上原専禄による指導について、その著書『自分の中に歴史を読む』の中で次のようなエピソードを紹介しています。

上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告をしますと、「それで、いった何が解ったことになるのですか?」と問うのでした。(中略)「解るということは一体どういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。

阿部謹也『自分の中に歴史を読む』

そうです。「わかるということは、かわるということ」なんです。

「わからない」ことに触れることは、「わかる」ために必要不可欠です。もし「わからない」という理由でそれを避けるならば、「わかる」チャンスを逃してしまうだけでなく、「かわる」可能性すらも失ってしまいます。つまり、気づきの契機ということは、「成長の契機」でもあるのです。

このように書いても、残念ながらこの言葉を読んだ多くの現代のビジネスパーソンは、さらにわかった気になるだけで決して変わろうとはしない人が多いことは認めつつ、しかししこのことは「わからない人=他者」こそが、自身の変化へのきっかけになるということを示しています。これがレヴィナスの言う「他者との邂逅がもたらす可能性」というものです。

接触仮説

接触仮説(Contact Hypothesis)とは、異なる社会集団間の偏見やステレオタイプを減少させる方法として、異なるグループのメンバー間での相互作用を重視する心理学の理論です。この理論は1954年にアメリカの心理学者ゴードン・オールポートによって提唱されました。

この仮説のおもしろいところは、教育、職場、地域社会など多様な環境で研究されてきましたのはもちろん、特に、異なる人種、民族、宗教、性的指向のグループ間での偏見を減少させる手段として注目されているところです。

一つ例を挙げます。ある研究では、白人のアスリートが黒人のチームメイトとどの程度の接触を持っていたか、そして個人スポーツかチームスポーツをしていたかを調査しました。チームスポーツ(例えば、フットボールやバスケットボール)をしていた白人アスリートは、個人スポーツ(例えば、陸上競技や水泳)をしていたアスリートよりも偏見が少ないと報告されました[1]。

私は常々「ビジネスマネジメントに、もっとスポーツマネジメントを取り入れた方が良い」と提唱しているのですが、チームスポーツは、サッカーやバスケットボールのように、プレイヤーが共同で目標に向かって努力する必要があります。このような環境では、プレイヤー間の協力が必須であり、お互いに依存する関係が生まれます。一方、個人スポーツでは、アスリートは自分自身のパフォーマンスに集中するため、他の選手との密接な協力は必要ありません。

すなわち、「目標に対してどれだけ真摯に向き合うことができるか」この姿勢が重要なのです。

このとき最も重要なポイントとなるのが、「この目標は、私自身の目標になっているか」そう自分自身に問いかける必要があることです。

上記してきたような、互いが互いをバカにするような人たちは、目標が自分ごとになっていないことが多い。そのことに気が付かないから、投げかける言葉がバカの壁に当たって相手には届かないのです。自分こそが企業や組織、チームの目標を自分ごとにできていないから、形ばかりの「チームという名前が付けられたただの集団」が「空中分解寸前で存在しているように見えるだけ」なのです。それで相手や相手チーム(に見えるだけの集団)に勝っただ負けただと騒いで一喜一憂しているのですから、もう好きにすればいい。

目標を自分ごとにできる人たちの集団は、ときに議論を戦わせながらも「相手は何を考えているんだろう?」「完璧だと思っていた私のプランにも穴があるかもしれない」この様な態度をとります。「他者」を気づきの契機にできるからこそ、より広範な視野で物事を見聞きしたり考えたりすることができるのです。

だからこそ、「成長」できるのです。

レヴィナスの「他者」という概念は、現代社会におけるグローバルな緊張関係や社会的断絶の中で、その意義が増しています。国際関係においては、北朝鮮やイランのような国々との緊張が挙げられます。これらの国々との関係は、政治的な意見の相違や歴史的背景により、もはや対話そのものが困難であると感じられます。

また、国内の観点からは、SNSやオンラインフォーラム上での意見の分断が顕著です。例えば、X(旧Twitter)やFacebook上で、異なる政治的立場や価値観を持つ人々が、互いに対話をすることなく、自分たちの考えを強化し合うだけの「エコーチェンバー」現象が起こっています。

このような社会的・国際的な断絶の中であるからこそ、レヴィナスの提唱する「他者」との対話の重要性が際立のではないでしょうか。相違点や対立を乗り越え、異なる立場や背景を持つ人々との直接的な対話を通じて理解を深めることは、現代社会における緊急の課題となっています。

互いの「顔」を直接見ることで、個人の背後にある人間性に気づき、偏見や誤解を乗り越える手助けになるのです。

インターネットというのは、実は非常に文字に依存するメディアです。いま、まさにこれを読んでいる皆さんも、文字を伝達媒体として私のメッセージを受け取っているわけですね。レヴィナスの指摘を色々と踏まえると、私たちは言葉というのに頼りすぎてはいけない、ということになるんじゃないかと思うのですね。言葉というのは記号ですね。数字と同じで要するに情報です。しかし、レヴィナスは情報に頼りすぎてはいけない、世界に何が起きているかは「他者の顔」にきちんと目を向けることでしか正確に把握できないし、あなたの共感や情動も発動されない、ということを言っているように思います。

#069 「顔が見える」ことについて レヴィナスの他者論を踏まえて/山口周

原則として、人は自分にしか関心がありません。しかし、自分の関心ごととなると他人に共有したいと思っているものです。いやはや、我儘な生き物です。この原則に従えば、「理解してほしいんだな」「知ってほしんだな」と、まずは私たちから歩み寄ってみるのはいかがでしょうか。



僕の武器になった哲学/コミュリーマン

ステップ1.現状認識:この世界を「なにかおかしい」「なにか理不尽だ」と感じ、それを変えたいと思っている人へ

キーコンセプト⑦「他者の顔」

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