将棋にハマった話

突然ですが、将棋にハマりました。

友だちが貸してくれた漫画「3月のライオン」を読んだのをきっかけに、その奥深さを知り将棋がやりたくなって、アプリを入れたら見事にハマって今日で通算ログイン28日目。家にいる時間の暇つぶしには持ってこいです。

一か月近く何かを続けると見えてくるものがあるものですが、毎日オンライン対局をしたり、詰め将棋に興じたり、新たな戦法を覚えたりなどとしているうちに「あぁ、これは語学に似ているなぁ」と思わずにはいられませんでした。
語学に、というか、あらゆる物事を “習得” すること、そして “上達” すること。ここにはやはり何らかの共通点があると思うのです。
たぶん、何か一つでも身につけたことのある人は、そのものさしで、そのまなざしで、次の何かをものにしていくのでしょう。

というわけで、語学脳が肥大化した僕がログイン3日目くらいに思ったことは「あぁ、これはつまり新しい文法を覚えているんだな」でした。
将棋は想像が及ばぬほど長く濃い歴史が育んできた一つの文化で、それぞれの駒の動きを生かし、先人が創ってきた数々のパターンが存在します。それはその時々でこれは良い手、これは悪手というのがある程度決まってしまうからで、その悪手を避けて最善手を繰り返していった先に “定跡” と言われる一つの型、フレームワークが出来上がります。
駒を単語、動きを意味と捉えるなら、そこに立ち上がるのは立派な文法です。そして文法は何語であっても本当に「よく出来てる」。将棋の定跡も同じです。

あとは、上手くなって行くプロセス、のようなものもとてもよく似ているなと思いました。いわば “意識と無意識の並走” が肝心で、どちらが欠けてもいけません。
まず意識の方はというと、とにかく勉強です。語学なら単語や文法を覚える、音楽なら音楽理論を学ぶ…など、これは “頭” を使った練習だとも言えます。将棋なら、駒の動きを覚える、棋譜の読み方や戦術を勉強する、といったことになるでしょうか。
次は無意識の方。語学であれば日々の音読やリスニング、スポーツなら筋トレや基礎練。“体” で覚えると言ってもいいのですが、というよりむしろ “頭” も使ってはいるのだけど “意識” されていないようなもの、という感じがします。
昨日知らなかった単語の意味を今日言えたらそれは目に見える進歩だけれど、昨日発音できなかった単語が今日突然上手くなったりということはあまりありません。ただ、長いスパンで見ればゆっくり上達しているのであり、これは “目に見えない進歩”、そしてそれを支えているのは、意識されずとも毎日活性化している “無意識” です。

将棋では、とにかく「詰め将棋」が大事(らしい)です。
「詰め将棋」とは、すでに終盤という局面、あと何手かで確実に相手の王様が “詰む” 状態で、詰みに持ち込む手を打つ練習のことです。パズルみたいで楽しいのですが、なんだか地味でめんどくさい。でもこれが大事!ということを知り、僕は愚直に「うん、そうなんだな」と将棋に関しては初心者ながら得心しました。
僕も語学の上達を目指している人に、「とにかく毎日音読してみて」と言うことがよくあります。音読は読解とは違います。ただひたすら、目と口を慣れさせるんです。それを繰り返すうちに脳内に回路が出来て、いずれすらすらと読めるようになります。

詰め将棋もきっと同じだ、と思いました。
その証拠に数日前、ある局面で「あ、ここだ」と思ったところに駒を打ったところ、状況が好転しました。おそらくそれはそのときの最善手だったと思うのですが、感覚的にそれがわかったのです。ただ、その感覚は最初から備わっているわけではありません。無意味に思われるようなことをただなんとなく繰り返しているうちに突然 “閃く” 瞬間が訪れる。それはコップの水が溢れるのと似ています。たとえ少しずつでも、水を足していけば水量は増え、いつかかならず零れるのです。(コップが割れていなければ)

あと、“間違える悔しさ” が大事、というのも同じです。
語学をやっていて「これは絶対に忘れないだろうな」と思うのはだいたい悔しいときです。上手く伝わらなかったとき、もっといい単語があったのにそれが出てこなかったとき、変な言い回しをして笑われたとき、など、間違えて、顔が赤くなって、悔しい思いと一緒に覚えたことはそうそう忘れません。上達への近道があるとしたら、たくさん悔しさを取り込むことです。
その点、将棋はうってつけです。なんせ一手でも間違えたら負けます。勝敗のない語学じゃ決して味わえないような悔しさが将棋という勝負の世界にはある、というのは、たった一ヶ月、遊びでやってる僕でもわかります。プロのそれはもう、五臓六腑が破裂しそうなくらい悔しいことでしょう。

などということを、外出自粛のこの頃、画面の上で駒を動かしながら一人で考えています。
でも、いろんな扉が閉ざされて出来ることがどんどん少なくなっていく中、一つでも何か新しいことに取り組めてよかったなぁとも思います。
積ん読になってしまっていた本を読むとか、新しい外国語の勉強をはじめるとか、埃をかぶった楽器を弾くとか、こういう時だからこそ、減った分だけ何かを増やせたら。


(2020.4.24 志村)

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