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再発の不安、度重なる手術 「将来を考えられない」 福島第1原発事故後、甲状腺がんの告知を受けた若者たち

 東京電力福島第1原発事故の影響で甲状腺がんにかかったとして、事故当時、福島県内に住んでいた10代〜20代の男女7人が東京電力に損害賠償を求めている。東京地裁で12月6日にあった第8回口頭弁論を傍聴した。

 裁判長が島崎邦彦氏に交代したのに伴い、2人の原告が2度目の意見陳述に立った。

原発事故後の2023年10月から、福島県は事故当時18歳以下の子どもたちを対象に県民健康調査を実施。約30万人が甲状腺検査を受け、300人以上が「甲状腺がん」または「がん疑い」と診断されている。原告もこの検査で「甲状腺がん」が見つかり、7人全員が手術を受けた。4人が再発を経験し、リンパ節や肺への転移がある人もいる。


311甲状腺がん子ども支援ネットワークのホームページで原告の意見陳述が聞ける

 

「死ってこんな感じかな」

最初に陳述したのは20代の女性。3回目の手術を控え、不安な心境を語った。

去年の12月ぐらいから顎のあたりにしこりを感じた。病院で「再発の疑い」と言われ、4月にがん細胞の有無を確認するPET-CT検査を受けた。

 「薬の点滴をされてからCTを受ける。がん細胞に集まる放射線を出す薬らしいです。点滴をされると体がカーッとあったかくなる。1時間ぐらいかかったと思います。検査の後はお水をよく飲んでくださいと言われました」

 医師からは「怪しいね。もう一回手術するかも」と告げられた。

8月に細胞診を受ける予定が、コロナに罹患して延期となり、12月15日になった。だが、「一番最初に手術したところの右側にしこりっぽいものがあって、その位置がよろしくない」と言われ、3度目の手術はほぼ確定だという。

 最初の手術は2015年の誕生日。全身麻酔は自分の意思と関係なく、意識がなくなる。「死ってこんな感じかな」と思った。「がんを取っちゃえば大丈夫」と言われたが、成人式の次の日に、またがんが見つかった。2度目の手術ではリンパ節を大きく切り取り、傷口も大きく、ふさがるのに時間がかかった。首から体液が流れ出て、あわてて福島から東京の病院に行った。「手術の後には、手足が硬直して、勝手にかかとが上がって立てなくなりました」。

 女性は、がんの発見につながった健康調査をありがたいと思っている。震災直後、被曝を気にせず一緒に校門のところや公園でおしゃべりしていた友達、その後福島から避難した友達の健康状態を心配している。「被災地の甲状腺がんの多発は過剰診断によるものだ」というニュースに接すると、「少しでもありがたいと思った私たちの気持ちはどうなるのか」と複雑な気持ちになるという。

 3回目の手術。もうやりたくない。不安だ。一体、どうなってしまうのか。

「がんの治療が長引けば長引くほど、だるくなります。何回手術すればいいのか。もしかしてずっと続くのではないかと考えちゃいます。今はとにかく、早く終わって欲しいです」。 


裁判後の支援集会では、弁護団報告や傍聴者のリレートークがあった=12月6日、日比谷図書館

身体から発する放射線 「近づかないで」と言われ

続いて、13歳と17歳で2度、甲状腺がんの手術を受けた10代の女性が2人目の意見陳述に立った。がんが見つかったのは中学1年生で、3回目の甲状腺検査の時。医者と看護師が何かを話しながら、甲状腺に何度もエコーを押し当てる姿に、不安な気持ちでいっぱいになった。

2次検査の細胞診では首に細くて長い針を刺された。激痛で動いてしまい、2度刺された。

 「細胞に刺さった時は、何か深いものにグサッと刺さった感じがして気持ち悪かったです。なんで自分がこんな痛い思いをしなくてはならないんだろうと思いました」

  がん告知を受け、1度目の手術を受けた。手術後に全身麻酔がなかなか抜けず、起きているのに何もできない状態が長時間続いた。

  4年後、2回目の手術では甲状腺がんをすべて摘出した。放射線を放出するヨウ素を内服し、甲状腺内部から放射線を照射するアイソトープ治療も受けた。薬は重いふたのついたガラス容器に入れられ、厳重に管理されていたので、「これを飲むのか」と怖かった、と振り返る。

薬を飲んだ後は体から放射線が出る。人との距離をとらなくてはならないのが辛かった。

「入院中、一度だけ、配膳する看護師の近くに行ってしまったことがありました。すると『近づかないで』と言われたので、暗い気持ちになりました」

 一日中、壁を見つめて過ごした。翌日の夕方、喉の周りが腫れて熱くなり、呼吸がしづらくなった。自分の体の線量を計ったら53㍃シーベルトあった。

退院するまで病室で副作用をじっと耐えるだけの生活が続いた。

「精神的にも身体的にも大きな負担がかかりました。もう二度とこの治療は受けたくありません」

 原発事故に遭ったのは小学校に上がる前。13歳でがんになり、17歳で二度目の手術を受けた。

「自分の考え方や性格、将来の夢もはっきりしないうちに、全てが変わってしまいました。だから私は将来自分が何をしたいのか、よくわかりません。恋愛も、結婚も、出産も自分とは縁のないものだと思ってきました」

 今年4月、大学生になった。環境や人間関係が大きく変わり、裁判の原告としての自覚を持つようになったという。いまは「自分にできることは小さいことでもいいからやってみようと思っている」と言う。「今後、長く続くであろうこの裁判に貢献していけたらいいなと思っています」

裁判の前にリレーアピールをする原告の支援者ら=12月6日、東京地裁前

 原告たちの被害を明らかにしたい

原告側代理人の 熊澤美帆弁護士は原告の損害について弁論した。冒頭で、治療のため大学を中退した別の原告女性の言葉を読み上げた。

 「本当は大学を辞めたくなかった。卒業したかった。大学を卒業して、自分の得意な分野で就職して働いてみたかった。新卒で就活をしてみたかった。友達と『就活どうだった?』とか、たわいない会話をして大学生活を送ってみたかった。今では叶わぬ夢になってしまいましたが、どうしてもあきらめきれません」

 熊澤弁護士は「この言葉はまさにこの裁判の特殊性を表しています」と話した。
被害は単に甲状腺がんに罹患したというだけにとどまらず、今なお生じ続けているとみる。

・今でも手術痕はくっきりと残っています。傷に関して聞かれるのが面倒なので、極力手術痕が見えない服を着るようになりました。
・再発することを考えると気分が落ち込んでしまうので普段は考えないようにしていますが、病院に行って検査結果を聞くまでは、どうしても不安でいっぱいになります。
・定期的にがんの告知を受けるかもしれないという恐怖があります。
・せっかく治療し、前向きになろうと努力してきたことが無に復するかのような絶望を味わいます。

原告らのこうした声を紹介し、「事故と病気の因果関係は主要な争点だが、判断の大前提として原告たちの被害がどのようなものかが明らかにされ、その被害救済が出発点として議論されなければなりません」と訴えた。

 その上で、治療費や手術の苦痛などへの慰謝料にとどまらず、進学や就職の機会や夢を奪われた損害、結婚や出産などの将来設計を狂わされた損害、家族の苦しみ、そして「子どもにも影響が出ないか」という不安に対しても救済が必要だ、とした。

 東電「原発事故とは因果関係がない」

 被告・東京電力側は、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)の報告をもとに、「原告らの甲状腺被曝量は推計10㍉シーベルト以下。国際基準でも100㍉シーベルト以下の年間被曝量では健康に影響は認められていない」と主張。「福島県内での小児甲状腺がんの多発は過剰検査によるもので、原発事故とは因果関係がない」としている。

首相官邸のホームページには、長崎大の長瀧重信名誉教授の「世界の甲状腺癌の現状」が掲載され、「(甲状腺がんの患者数の増加は)医療技術の発展により、症状のない人でも超音波検査、針生検による細胞診で診断されるようになったから」と記されている。

 こうした東電と国による「過剰検査」説に対し、原告側代理人は論拠を上げて反証を積み重ねている。

第8回口頭弁論で、田辺保雄弁護士は「原告ら各人が被曝により甲状腺がんを発症したと考えられる原因確率は99・3%〜94・9%で、因果関係が肯定された他の公害事例と比べても以上に高い数値だ」と指摘。原告らには小児甲状腺がんの原因となるような病歴がなく、全員被曝後に発症しており、「小児甲状腺がんは自然発生頻度が極めて低く、他の危険因子は考え難い」と述べた。
中野宏典弁護士は、UNSCEARの報告では、日本人は海藻を多く食べ、ヨウ素の経口摂取量が多いとして、被曝の影響を下ブレさせる固有の係数がかけられていると指摘。原子力安全委員会のSPEEDI情報によると、放射性ヨウ素の内部被曝による1歳児の甲状腺等価線量が2011年3月12日午前6時から3月23日午前0時までの積算値で100㍉シーベルトを超えると試算された地域は、福島県飯舘村、川俣町、いわき市にまで及んでいたとし、被告が福島県の子どもたちの被曝線量が閾値に達していない根拠とする「1080人実測値」には、何らかの問題があったなどと主張している。

まもなく提訴から2年を迎える。第9回口頭弁論は2024年3月6日14時から東京地裁で開かれる。
             (阿久沢悦子)

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